危機のときと大きな物語と小さな物語―大きな物語による危なさもある

 日本人は、危機のときほどそれにまともに向き合わない。だれかを批判したり責任を押しつけたりすることにかまける。危機のときは負の心理がおきやすいときだからこそ、そういうときにはみんなが一致団結するのがよい。そうしたツイッターのツイートがあった。

 大きな物語としての客観的な危機があるのだと言うことはできるのだろうか。それがあるのだとは言うことはできづらく、またそう言えるのだとしても、総論賛成各論反対のようになることは少なくない。

 ひと口に危機とはいっても、それがとんでもないものなのか、それともそれなりのものなのか、または大したことがないものなのか、のちがいがある。色々に視点を変えて見てみることがなりたつ。一つだけではなくて色々に見てから決めたほうがまちがいを避けやすい。

 危機は負の価値となるものだが、それはそれぞれの人の価値意識によってちがってくるところがある。どのような意味づけや価値づけをするのかによってちがってくる。まったくの客観そのものではなくて、多少ではあったとしても主観が入りこむ。事実の中に主観の価値が入ることになる。

 大きな物語としての客観的な日本人というのもまた言えそうにはない。一元ではなくて多元化しているようになっている。実在としては日本人の全体の集合の中には色々な人がいる。日本人かそうではないかの厳密な区別は必ずしも完全に自明とは言えそうにはない。日本人の中には、あることを危機だと見なす人もいれば、そうではないと見なす人もいるだろうし、そのうちのどれが正しいのかはいちがいには決めつけられそうにはない。

 みんなが一致団結してやって行くことができればよいときはあるが、プラスだけではなくてマイナスもまたある。マイナスとしては、抑制と均衡がはたらかないことがある。効率がよいのが悪くはたらく。

 一致団結してやって行こうとするさいに、そこから外れてしまうものを悪玉化することの危険性がある。多数派が正しいということになって、少数派が悪玉化される。悪玉化による排斥が行なわれないようにして、できるだけ質のちがうものであったとしてもくみ入れられるようであるほうがよい。よほど悪質なものであればよくないわけだが、それは除くとして、色々な質があったほうがよりよいあり方につながりやすい。

 中にはよいのではなく悪い一致団結のしかたがあるし、悪いだけではなくてよいばらばらさもある。一致団結するからよいとは限らないし、ばらばらだから悪いとは言い切れそうにない。一致団結するとはいっても、それが悪いときがあって、みんなが同質のあり方になると、異質さが排除されてしまう。みんなが同質なのは、みんながとり替え可能ということであり、悪い言いかたで言えばみんながとるに足りないとも言え、互いが互いを同じように真似し合うことで、互いにまったくそっくりなちがいなきあり方になることだ。ちがいがあるとしても量のちがいだけでしかなくなる。

 悪いばらばらさとしては、社会的矛盾があげられる。協力するべきときに協力しない人が出てきてしまう。なすべきことをなさない人が出てきてしまい、なすべきことをなすのがさまたげられる。これをどうするのかは難問だ。いわば、よい形での一致団結ができないからこその(できないという)問題だと言えるだろう。一人ではなくて複数の人がいて、集団においてものごとを決めるさいにおきる問題であるという。一人で決められることであれば、一人の中で完結させやすいが、集団のことだとそうは行きづらい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会的ジレンマ山岸俊男構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり)