桜を見る会とその前夜祭を、直接にではなくて間接の仮説から見てみたい―帰びゅう法(背理法)からの見かた

 桜を見る会とその前夜祭について、間接的に仮説を立てられるとすると、どのようなことが言えるだろうか。一つには、かりに桜を見る会とその前夜祭のことが、小さいこと(大したことがないこと)で、首相は悪いことをやっていないのだと仮定できる。

 その仮定を間接的に立てられるとすると、小さいことや大したことがないことなのであれば、長引かずに速やかに片づくだろう。そんなに時間や労力を多くかけることはいりそうにない。料理でいうと、本格的なラーメンを一からつくるのではなくて、即席麺をつくるようなものではないだろうか。

 首相は悪いことをやっていないのだとすると、そこで首相がなすべきなのは、きちんとした説明を国民に向けてすることだろう。それができるはずだし、国の政治家なのであればできるかぎりやらなければならない。

 いまのところ、首相は体系による説明ができているとは見なしづらい。その場しのぎの場当たり的な発言にとどまっているように見うけられる。線と点でいうと、お互いに矛盾し合った点どうしが点在しているありさまだ。

 点がいくつかあるだけであれば、説明としては不十分だ。きちんと整ったようにして、点どうしをつなぎ合わせて線にして説明することがいる。国民に向けて説明をして、それを受けとる国民が十分に納得できるだけのものであるのがのぞましい。たとえ国民が納得しようとしまいと、それをすることはいわば義務のようなものだと見なしたい。そのなすべきことを果たしていないのが現状だ。

 間接的な仮説を立てて、そこから見てみれば、小さいことや、大したことではないのなら、速やかに片づけられるはずだし、首相がとくに悪いことをやっていないのであれば、国民に向けて十分にきちんと整った説明ができるはずだし、しなければならないのではないだろうか。このさいの説明は、中途半端な質問と応答ではなくて、漏れや抜かりがなく重複もないような、総合的な説明であることがいる。

 ほかの色々な見かたもとれるのがあるし、総合的な国民の効用(満足)からしてどうなのかというのもまた外せないところだから、あくまでも一つの見かたであるのにとどまるのは確かだ。功利主義から見てみれば、最大多数の最大幸福にかなうのであればよいとできるから、全体の効用が大きく下がるのではなければよいとも言える。

 直接にこうだというのではなくて、あえて間接的に仮説を立ててみて見られるとすると、小さいことや大したことがないことだとか、首相はまったく悪くはないのだとは言い切れそうにない。そうであるという間接の仮説に見合うようなふさわしい言動をしているとは見なしづらい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『図解 すぐに身につく 説明上手になれる本』高嶌幸広(たかしまゆきひろ) 『静かに「政治」の話を続けよう』岡田憲治(けんじ)