生の欲動と死の欲動のせめぎ合いと割合―両極性がある

 個人には、生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)がある。それとともに、社会にもまた生の欲動と死の欲動があるという。学者のエーリッヒ・フロムによる。

 生の欲動は蓄積だと見られる。死の欲動は蕩尽(とうじん)や消尽(しょうじん)だ。この二つの両極があって、個人と社会はともに、両極性をかかえているととらえられる。

 個人と社会はばらばらにあるのではないとすると、そのあいだには照応の関係がなりたつ。戦時中であれば、社会の全体が死の欲動になっていて、蕩尽や消尽に大きく傾いている。個人はそれに巻きこまれて、いやおうなく自分の命を蕩尽や消尽させられることになる。

 死の欲動は、悪い形での蕩尽や消尽だ。具体的には戦争がある。それとは別によい形での蕩尽や消尽があって、それは贈与である。個人の一人ひとりが平等に尊重される。

 日本の江戸時代では、二〇〇年以上にもわたってそれなりに平和な世の中がつづいたとされる。そのわけとしては、一つには参勤交代などの制度によって、大きな富を蓄積することが防がれていて、定期的に散財させられていたのがあった。これは戦争などと比べれば、まだよい形での蕩尽や消尽と言えるかもしれない。

 たんに生の欲動だけがあるとか、生の肯定だけがあるとか、蓄積だけがあるとかとするのは、両極があるうちの一つの極しか見ることができていない。もう一つの極がとり落とされてしまっている。

 振り子のようにして、一つの極に振れすぎていたり、振れつづけていたりすると、もう一方の極に動くことがおきることになる。それがあることが見こまれるので、蓄積だけではなくて、蕩尽や消尽もあることをくみ入れておいたほうがよいだろう。

 両極性があって、そのせめぎ合いがある。個人や社会にはそれがあるととらえられるとすると、ときには一方の極に振れるだろうし、別のときには反対の極に振れることになる。

 せめぎ合いがある中で、社会についてを見てみると、悪い形での蕩尽や消尽に傾いてしまうおそれがある。戦争や、突発のできごと(自然災害など)がおきて、社会が崩壊することになる。そうしたことがまちがいなくおきないとは言い切れそうにない。

 個人においての傾きと、社会においての傾きがあって、その組み合わせがあり、照応の関係がある。蓄積の極に振れているのなら、その反対である蕩尽や消尽の極に振れるときが来るだろう。それは消長の動的な動きがあることだ。消長というのは、力が増したり減ったりすることである。

 うまいぐあいに、個人がよい方に傾いて、社会もよい方に傾いているのかというと、そうとは言えそうにない。個人は死の欲動に傾きがちで、社会もまた死の欲動の方に傾く。自然や環境の破壊なんかがあることにそれが示されている。自分で自分の首をしめてしまっているところがある。

 生の欲動のようでいて、じっさいには死の欲動になっているというか、生が形式だけのものになってしまっていて、その実質が欠けてしまっている。そのために、死の欲動に傾きやすくなっていて、せめぎ合いがある中で、うまくつり合いをとることができづらい。

 いっけんすると社会の全体が充実しているようでいて、その中にはうつろな響きをたてているところが点在している。そのうつろな響きをたてているところは全体の中の例外に当たるものなのではなくて、それが全体の性格を示している(映し出している)のだとという見かたがなりたつ。

 生が虚無となってしまい、虚無主義(ニヒリズム)がはびこるようになって、表面的な効果に走るようになる。充実した中身を欠いた空疎な効果である。いまの首相による政権にはそれが見てとれる。また経済では実体のうらづけを欠いた巨額の数字のマネーゲームがある。つり合いを欠いた見かたではあるかもしれないが、否定や悲観で見られるとすると、そう言えるところがある。

 参照文献 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司