固定的にずっとそのままというのではなくて、変態(メタモルフォーズ)するものだと見なせる―実存(個人)と社会の動態性(ダイナミズム)

 ホームレスの人は、いざというさいに救われる優先順位が低くてよいのだろうか。強い台風がやって来たときに、避難所に避難するのがあと回しになってもよいのだろうか。

 点と線ということで見てみられるとすると、ある人がホームレスであるというのは、点で見ればそうだが、線で見ればまたちがってくる。ある人がいまホームレスであるというのは、結果であるとは言い切れず、過程であるのにすぎない。そう仮定することがなりたつ。

 振れ幅が大きい人も中にはいるだろう。会社の社長として大金を稼いでいた人がホームレスになることもあるから、その人は、会社の社長であったときには(不法に脱税していたのでない限りは)少なからぬ税金を納めていただろう。社会に貢献していたのである。

 人間というのは環境が変わればまたちがってくるところがある。とり巻いている環境がちがってくればまた変わってくるだろうし、生きているかぎり人間はたえず変容する見こみがある。

 連続として見ずに不連続として見られるとすると、人間はどこかの時点で変化することがあるから、悪い状態からよい状態に変わることがあるし、あるときから社会に大きく貢献する力をもつようになる人もまたいるだろう。どんな人がどんな隠れた力を持っているとも限らないのだから、いまの時点だけを点で見て、その点を最終の結論のようにして評価づけをするのは適したことだとは言えそうにない。

 いまよい人であってもあとになって駄目になることがあるし、いま駄目な人であってもあとでよくなることがある。振れ幅が大きいだけなのだとすれば、その振れ幅がえがく波動の全体を見ることがいるのであって、上の方だけとか下の方だけを見るのは全体を見ることとはまた別だ。振れ幅の波動の全体がどうなるのかというのは終わってみなければわからないし、終わりが来なければふさわしい意味づけはできそうにない。途中の時点においては、まちがいなくこうだというふうに断定することはできづらい。

 お笑いでいわれるフリと落ちというのを当てはめられるとすれば、いま駄目なのだとしてもそれはフリであるのにすぎず、あとでよくなるという落ちが待っているかもしれない。いまよいのだとしても、それはフリであって、あとになって駄目になるという落ちもまたあるだろう。そうした揺れ動きというのがあるから、固定化して見るとまちがうことになりかねない。

 参照文献 『西日の当たる教室で』千原ジュニア陰日向に咲く劇団ひとり 『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎どん底を生き抜く方』堀之内九一郎 『哲子の部屋Ⅲ “本当の自分”って何?』千葉雅也監修