自粛と補償と労働―働かざるもの食うべからずと自粛の大義

 自粛と補償は一体であることがいる。その二つが組みであることがいることから、補償を求める声は強い。与党である自由民主党の議員は、補償をすることについて、働かざるもの食うべからずということを持ち出して渋っているという。

 働かざるもの食うべからずについては、それを一般化するのではなくて、状況をくみ入れないとならない。いまは新型コロナウイルスへの感染が広がっているという状況があるのだから、そのことをくみ入れないで、働かないものは駄目だというのは価値の押しつけなのではないだろうか。

 いまは自粛をするという大義名分がある。働くことが大義であるのみならず、自粛することもそれと同じかそれより以上に(人によっては)大義である。

 働かざるもの食うべからずという価値を見てみると、いついかなるさいにもそう言えるとは言えず、絶対の価値とすることはできづらい。

 政治においては、国会の場で、与党の政治家が詭弁や強弁や嘘を平気で行なうことは、働くことに当てはまるのだろうか。与党の議員が自分たちに有利になるようにわざとかみ合わない議論やご飯論法(上西充子教授による)を行なうことは、働くことに当たるのだとはいっても、国民の益になっているとは言い切れそうにない。きびしく言えば害になっている。

 働くことによって、自然を破壊してしまっているのがある。とり返しがつかないくらいに自然を壊してしまっているところがある。人間が自分たちの仕事を得るために、自然が壊される。それによって得られるはずの自然の恵みが得られなくなる。効用を失う。

 自然の資源は有限だから、その資源を使う仕事に持続性があるのかには疑問符がつく。資源が無くなってしまえば仕事をすることもできなくなるから、下部構造である物質に支えられた上部構造だということになる。上部構造だけで独立してなりたっているのだとは言えそうにない。

 出発点や持っているものがみな同じではなくて、それぞれの人で持っている溜めがちがっているから、どういう人がどういうふうに働くのか(または働かないのか)はまちまちなものだろう。さまざまなあり方になっている。それが危険性を生んでいるのがある。その危険性を個人が抱えざるをえず、個人に押しつけられているのはいなめない。危険性を背負う度合いは人によってさまざまだ。

 働くことは他律であり、それは隷属である。働くことは自由であるというかけ声がナチス・ドイツ強制収容所では言われたが、じっさいには自由にならなくなるところが小さくない。働くことに自明の価値があって、それをすることがまちがいなくよいことだとは言い切れず、それが根本から反省されることが少しはあったほうがよいのではないだろうか。

 参照文献 『近代の労働観』今村仁司 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『討論的理性批判の冒険 ポパー哲学の新展開』小河原(こがわら)誠 『できる大人はこう考える』高瀬淳一