かりに日本が韓国に謝罪と賠償をしっかりやったとして、はたして韓国はそれを認めてくれるのか。日本のことを許す気はあるのか。
そのことについて、日本のことを許すかそれとも許さないかのどちらか一方だけだというのだと、一か〇かや白か黒かとなってしまう。
日本がたとえ何をやったとしても、韓国はどうせ日本のことを許す気はないのだということだと、必然として韓国は日本のことを許さないという見かたにたどり着く。極端に言えばそうだ。
韓国についてを見てみると、そこには二つくらいのあり方があるのではないだろうか。一つは厳父であって、もう一つは優しい父または母だ。このうちで、優しい父または母というのは、とくに親ではなくてもよくて、兄弟性(連帯や友愛)と言ってもよい。
韓国は、厳父であるかもしれないし、もしくは優しい父や母であるかもしれない。そのどちらであるかは定かではないし、どちらの面もあわせ持っているということがある。
厳父を理だとすると、優しい父や母は気だ。韓国は理だけではなくて気のところもあるので、その気というところにおいては、日本の気と韓国の気との相互作用が働く。こちら(日本)が韓国のことをいやだと思えば、韓国もまた日本のことをいやだと思う。そうしたような相互作用が働くところがある。なので、否定の気だけではなくて、肯定の気をもって見るようにするのはどうだろうか。
厳父である理を樹木(ツリー)であるとすると、優しい父や母である気は根茎(リゾーム)だ。樹木のところだけを見ていれば、韓国はあいかわらず日本に厳しいし、これから先もずっとそうだということになる。樹木ではなく根茎(こんけい)に目を向けてみれば、もうちょっと柔らかい見なし方がなりたつ。日本と韓国の気がお互いに通じ合うということはないではないのではないだろうか。