車化社会(モータリゼーション)と自動車事故と物象化

 車が人をひく事故が、ニュースであいついで報じられている。もし車にひかれる事故に巻きこまれたらと思うとぞっとしてくる。

 車が人をひく事故というのは一つのできごとだ。このできごとは、それがおきたあとになってそのできごとの大きさを受けとれるものだ。事後性がある。おきる前とおきたあとでは、それに巻きこまれた人の生が激変することになる。偶然によるもので、暴力的だ。

 いまの社会は車化(モータリゼーション)が進んでいる。車が社会の中に組みこまれている。車を売ったり買ったり使ったりしないと経済が立ち行かないとさえ言える。人間の生はそれに影響を避けがたくこうむる。車化社会であることによって、人間の生が物象化されるのだ。死ととなり合わせになっているのだ。

 人間を傷つけるような自動車の事故が起きる確率は、一説には宝くじの一等が当たるくらいのものだとされる。確率として言えば、そこまで大きなものとは言えそうにない。頻ぱんにおきるものではなくて、めったにはおきないとは言っても、社会の大きな問題であることはまちがいがない。他人ごととしてであれば、確率だけですむけど、自分ごととすれば、それで割り切れるものではない。

 自動車を運転するさいには、危ないことがおきたらそれを避けることがいる。避けるさいには、減速してから回避するという順番がある。回避よりも、ブレーキなどで減速することのほうを先にする。これは元F一レーシングドライバー中嶋悟氏が言っていたことだ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司