五輪をやることの自明性や必然性や自然さと、構築主義による人為の構築性や可能性や可変性

 すでにやることが決まっているのが五輪だ。五輪を中止にすることを言うのは不毛だ。非現実的だ。そう言われているのがあるが、五輪を中止にすることを言うのはまるで意味がないことなのだろうか。

 構築主義(constructionism)によって見てみられるとすると、自然のものであれば変えられないが、人為に社会的に構築されたものであれば変えられるのだとされる。五輪をやることは自然のものではなくて、人為に構築されたものだから、変えることができる見こみがある。客観の法則のようにまったく変えることができない自然のものではない。

 自然のものであれば変えられず、社会において構築されたものであれば変えられる。現実にはことはそうかんたんには運ばないことが少なくはない。自然のものであったとしてもあんがい変えられるものが中にはあるし、社会的に構築されているものであったとしても変えづらいものがある。変えようとするとかえって変わらなくなるといった逆説がはたらくことがあるのだ。現実はむずかしい。

 五輪をやるのとやらないのとの二つがあるとして、五輪をやることだけが正しいのだとするのは自明性によるものだ。そうであることが当たり前だとする神話作用がそこにははたらいている。

 自明性によるのではない見かたをとることができるとすると、五輪をやることだけではなくてやらないこともくみ入れられる。二つの次元をとることがなりたつ。必然性の次元と可能性の次元だ。

 二つの次元があるなかで、政治は必然性の次元によってやるものとは言えそうにない。政治は可能性によるものであって、可能性の次元でやることがいる。

 必然性の次元によるのであれば、やるのとやらないのとのうちで、どちらかだけが正しい。どちらかだけしか正しくない。もう一方はまちがっている。

 可能性の次元によるのであれば、やるのとやらないのとのうちで、どちらかだけが正しいのではない。どちらも正しいことがありえる。

 できごとがすでに結果としておきてしまっているのだとすれば、それは必然性の次元として見るのがふさわしい。すでに結果としておきてしまったことは、それがおきなかったときにあと戻りすることができない。時間の流れは不可逆だからだ。

 まだできごとが結果としておきていないのであれば、可能性の次元として見るのがふさわしい。いまだにおきていないことなのであれば、それがおきることもありえるしおきないこともありえる。どちらでもありえるのである。起きるとしていたことが起きないこともあるし、起きないとしていたことが起きることもある。

 やることだけが正しくて、やらないで中止することはまちがっているとしてしまうと、五輪についてを必然性の次元として見ることになる。それだと政治が行なわれなくなってしまう。政治では可能性の次元によることがいるから、やるのとやらないのとの二つを共にとり上げるようにすることがいるものだろう。

 やったとかやらなかったとかの、すでに結果が出たことであれば、それは必然性の次元のものごとだ。やったとかやらなかったとかといったことなのであれば、そのことを可能性の次元としてとり上げても不毛ではある。すでに起きてしまったことなのであれば、あと戻りはできないから、受け入れるしかない。引き受けるしかない。歴史を都合よく修正するのでもないかぎりはそうするしかない。

 必然性の次元によるのがすでに起きたことだとはいっても、国の歴史では、すでにおきたことそのものは何だったのかはわかりづらい。なまの体験やなまのできごとを言葉にするさいに文法の制約を受けるし、編集によってものごとが取捨選択されることになる。編集によって物語化されざるをえない。

 国の歴史では、ほんとうの真実は何かはわかりづらいのがあるから、歴史学などの学問によって(学問の問がしめすように)さまざまに問いかけられることがいり、さまざまに議論(問答)による話し合いが行なわれることがよいことだろう。国をこえて、国をまたいでそれが行なわれることがいる。

 かりに五輪をやるのだとすれば、そこでどういうことが起きるのかがある。五輪をやらないで中止するのだとすれば、そこでどういうことが起きるのかがある。五輪をやるさいにどういったことがおきるのかや、やらないときにはどういったことがおきるのかは、可能性の次元によることだ。

 まちがいなくこうなるのにちがいないとは言い切れないから、こうなるだろうといった帰納によるがい然性の話になる。演繹によってまちがいなくこうなるとは言い切れないのがあるので、どのようになるのかはいろいろな可能性がある。五輪をやるにせよ、やらないにせよ、いろいろな可能性があるから、そこを帰納のがい然性によって見て行く。

 ものごとはじっさいにやってみなければわからず、じっさいにフタを開けてみなければわからないことはあるだろう。じっさいにやってみて、事後になってみなければわからないことはあるが、できるかぎり事前にさまざまな可能性をとり上げて見て行くように努めることがいる。事前にできるだけやっておくべきことがあり、できるだけ前もってものごとを予測しておいて、不確実性への備え(contingency plan)をしておく。

 いくつものありえる可能性をとり上げて行き、事前にそれを明らかにする。よい可能性や悪い可能性をいろいろに見ていってとり上げて行くようにすることが政治のなすべきことであり、そこにもれや抜かりがあるのではないことがいる。車の運転でいうと、だろう運転ではなくてかもしれない運転をすることがいる。かもしれない運転をすることが、政治をやることであり、だろう運転になってしまっていたら政治をやっていることにはならないだろう。

 参照文献 『論理的に考えること』山下正男 『情報生産者になる』上野千鶴子 『十三歳からの論理ノート』小野田博一 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『構築主義を再構築する』赤川学 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『一冊でわかる 歴史 a very short introduction』ジョン・H・アーノルド 新(しん)広記訳 福井憲彦解説 『知の編集術』松岡正剛(せいごう)