学園の理事長は、いまの政権と同じように、(公の)文書を軽んじているのがよくないのがある

 県の文書には目を通していない。学園の理事長は記者会見の中でそう言っていた。県の公文書の中で大事なことが書かれているのは六ページにすぎないが、それに目を通していないという。

 県の文書に記されていることと、それにまったく目を通していない学園の理事長が記者会見で口から言ったことと、どちらが信用に足るものなのか。

 県の文書に記されていることが、絶対にまちがいなく正しいとは言い切れないし、理事長が記者会見で口から言ったことが、絶対にまちがっていてでたらめだとは決めつけられそうにはない。

 場合分けをしてみれば、文書に記されているからといって正しいとは限らないし、口から発したことだからといってまちがっているとは限らないのはある。正しいか正しくないかは、どちらであることもあるが、一般論からすると、文書に記されていることのほうがより重みがある。

 大事な内容だから文書に残しておく。これは大事なことだということで文書に記録するという心理がはたらく。あとでもめごとになったさいに、文書に記録が残っていれば、それをもとにして見て行くことができる。捨ててしまわない限りは文書には存続性がある。

 文書に記されていることが、まったくのでっち上げであり虚偽だというのもないではないだろうが、その点については、現実との整合性や、つじつまが合っているかや、周辺の状況や、前後の文脈などにより、説得性を見て行ける。説得性が〇か一〇〇かということにはなりづらい。

 学園の理事長や、それとつながりのあるいまの政権は、疑惑がおきたさいに、残されていた文書の内容を軽んじるのが目だつ。いまの政権(の息が吹きかかった省庁)においては、公文書を改ざんまでしているしまつだ。残された文書の内容よりも、口から発することを優先してしまうのであれば、口から出まかせを言うことができてしまう。まずいことである。

 文書を残していたほうと、残していなかったほうがある。この二つがもめたさいには、文書を残していなかったほうに不手ぎわがある。そうしないと、文書を残すことの意味がなくなってしまう。事前に備忘として文書を残しておけば、事後にそれを参照できるので役に立つ。

 文書に記されたことが完ぺきに正しいとは限らず、いつわりが記されていることはゼロではない。ゼロではないにしろ、具体の証拠がないのであれば、いつわりだと決めつけることはできない。

 内容においては、残された文書に記されている内容のほうが、口から発して言うことよりも、一般的にはより信頼度が高い。一つには、残された文書は、だいたいにおいては、そのことがおきて間もないうちになるべく早めにおきたことを記しておく。そのいっぽうで、口から発することは、しばらく時間が経ってから、自分の頭の中から思い出そうとするものだから、正確性に疑問符がつく。記憶は意外とあやふやなのがある。

 もう一つには、文書に記すときに、あらためておきたことがどういったことだったのかを整理することになる。文書に記す中で、おきたできごとが整理されるのである。重要なものとそうでないものが振り分けられる。木の幹と枝葉といったようにして、幹を中心にして記すようにするものだろう。そのいっぽうで、口から発することは、幹と枝葉が分けられていないでごちゃごちゃになっていることがある。その場で、自分の頭の中の記憶をたよりにして口から発するためである。