直接さと間接さ(媒介性)を対比してみることができる

 直接さと間接さを比べてみることができる。直接さは、速度の速いものである。間接さは、速度の遅めのものである。

 直接さは短い時間で育てる促成栽培であり、間接さは時間を長めにかける低温熟成であると見なせるものだ。

 直接さは透明なあり方で単眼のものである。透明にものを見通す。間接さは不透明なあり方であり複眼のものだとできる。不透明にしかものを見ることができない。

 直接さは、学者のダニエル・カーネマンの言っているというシステム 1に当たる。システム 1は感情や直感によるものだという。システム 2は理性によるものだとされている。このシステム 2は間接さである。

 システム 1である直接さは、ものを言い切ってしまう。これは斫断(しゃくだん)である。斫断によりものを言い切り、結論をとる。

 システム 2である間接さは、ものを言い切ってしまうのに溜(た)めをもつ。待ったをかける。斫断をとらないようにする。結論をとるのではなく仮説にとどめておく。正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。がい然せいである。

 直接さは直線のあり方だ。寄り道をしない。速度の速いものである。

 間接さは曲線をとる。くねくねしているものだ。寄り道をして迂回する。迂回することによって逆説として直線とする(急がば回れ)。

 直接さをとることによってものを言い切ることはできるが、はたしてそれを虚偽ではない完全な形ですることができるのかというと、そうとは言えそうにない。人間がものを言うさいには、直接に言いあらわすことはできづらく、言葉によって媒介されざるをえない。言葉によって媒介されることで媒介性がおきる。これは間接さである。

 直接さをとることができるのはあるにせよ、それはじっさいには間接のものである。言葉によって媒介されていて、媒介性がとられているためである。

 間接さを見てみると、それは記号によるものである。痕跡だ。記号は実体ではなく関係の差異によって成り立つ。世の中の全体を、色々なものごとに分節する。たとえば天気では、晴れや曇りや雨の変化は本来は一つづきのものだが、それを分節することでよい天気や悪い天気が成り立つ。日によって、よい天気になり、悪い天気になる。

 世の中の全体や分節されたものを実体として見てもまちがいというわけではないが、それはわきに置いておきたい。

 関係の差異によって記号はできていて、記号と意味の結びつきは恣意(気まま)による。必然のものではない。日本太郎という名前の人がいるとして、その名前は親がつけたものだが、日本一郎と名づけても成り立つ。

 記号では、正の価値づけや負の価値づけがとられて、対立がおきる。たとえばよいと悪いは、正の価値と負の価値をもつものであり対立するものだ。

 中立にものを見ることはできづらい。直接にものを見ることができるとすれば中立にとらえることができるかもしれないが、生まれ育った地域の文化や歴史に人間は媒介されている。その影響を受けざるをえない。地域の文化や歴史や自分の利害などからの影響を受けていて、そこから主体である人間が成り立つ。そこに媒介性がはたらいている。ものを見る目が多かれ少なかれ偏向しているのである。