なぜ出席するのが許されないのかの合理的な説明が十分でないのがあるかもしれない

 宮中晩さん会が開かれる。皇室でもよおされるものである。その席に国賓が招かれるが、同性のパートナーであるのなら出席するのに反対だ。自由民主党竹下亘氏はこのような発言をして、あとで不適切だったとして事実上の撤回をした。

 竹下氏は、宮中晩さん会への同性のパートナーの出席に反対だとの発言をしたあとに、言わなければよかったと反省したそうである。その反省の中で、竹下氏の身近には同性のパートナーをもった人がいるのだと語っている。そのほかに、竹下氏のめいから電話があり、どんなことを心の内で思っていてもよいが、口にするべきではないことだった、と言われたという。

 宮中晩さん会に同性のパートナーの国賓が出席するのに反対なのは、日本の国の伝統に合わないからだと竹下氏はしている。この日本の国の伝統というのはいったい何なのだろうかという気がする。かりにそうした伝統があったとして、それが正しいことだとも言い切れないものだろう。伝統だからそれが正しいとか従わないといけないとかするのではなく、それを改めて吟味することがあってもよい。

 皇室を考えたさいに、日本人のメンタリティ(精神性)としてどうなのかがあり、そこから同性のパートナーの出席に反対する発言にいたった。そのようにも述べている。このメンタリティというのもはっきりしたものとは言いがたい。日本人のメンタリティとはいったい何なのだろう。日本人のメンタリティと非日本人のメンタリティを分けるものが何なのかが定かではなさそうだ。そのあいだの線はそうとうに揺らいでいる。また、あるべきだとされる日本人のメンタリティとじっさいの日本人のメンタリティは一致しているとは言えそうにない。

 日本の国の伝統だとか、日本人の精神性とかに合うかどうかで判断する。そのさい、伝統や精神性というのはかなりうさんくさいものであるのはたしかである。なので、独断や偏見におちいるおそれが低くない。そうしたおそれを避けるためには、伝統や精神性に合わないからだめだと決めつけてしまわないようにする。伝統や精神性に合わなくても、よかったりのぞましかったりすることもある、とするのができる。それで見られればよかったのだろう。

 同性のパートナーをもつ国賓を、属性で見ているのがありそうだ。属性とは範ちゅうでありキャラクターである。そうした属性や範ちゅうで見るのではなく、現実の特定の人としてどうなのかといったふうにも見られる。そうすれば、個人を尊重しやすくなりそうだ。人には色々なちがいがあってよいわけだし、それに加えてそれぞれの人はなるべく平等にあつかわれるのがのぞましい。