なるべくなら、国家は個人への(印象)操作は控えたほうがよいのでは

 組織にたいする忠誠が十分ではない。そんなところもあったせいか、文部科学省事務次官であった前川喜平氏は、日本政府からかなりにらまれてしまっている。政府からの報復を受けているようだ。国家の機関から個人がにらまれるというのは、かなりやっかいなことである。ほんらいあってはならないことであると言えるだろう。むしろ、国家は個人をかばうくらいでもちょうどよいのではないかという気がする。忠誠を示すのと引きかえに、組織のなかで上に引き上げるといったような駆け引きを、国家は手段として用いるべきではないだろう。

 前川氏は、二重拘束(ダブル・バインド)の状況におちいったというふうに見なせそうだ。国家の機関のなかでは、上のものにたいする忠誠を誓わせられることが求められた。しかし、前川氏の内面では、その要求に従ってさえいればよいとはならなかったといえる。もっとほかの、精神分析学でいわれる超自我による良心からの声が少なからずはたらいた。その声を無視することはしがたい。国家の機関のなかでは、上のものにたいする忠誠が正しいことだが、それとは別に、超自我による良心からの声をきちんと聞き入れる正しさもある。

 前川氏のなかでは、そういったような要求がぶつかり合ったところがあるかもしれない。そのうえで、言えるであろうことがあるとすれば、なぜ日本政府がこぞって前川氏を批判するのかといえば、それはおそらく国家の機関において忠誠が重んじられていることがあるせいではないか。上のものである政府に忠誠を誓うことの価値が幅をきかせている。それによって統制している。しかし、国家の機関から一歩外に出れば、そのなかで忠誠を誓うことの価値をかなり相対化できる。もっとほかの正しさもあることはたしかだ。

 国家の機関へ忠誠を誓うよりも高い価値などあるのか。そんなものがあるなら言ってみよ。そのような声もあるかもしれない。ひとつにはそれは、国家の機関の中枢は政府がとりしきっているわけだけど、政府は国民のためになることを必ずやるとはかぎらない。そこは確実な保証はない。裏切ることがあるのはまちがいない。なので、ひろく国民の目線から見て、これはおかしいというふうであれば、公すなわち民ということで、公につながる憤りをもつことはできる。この憤りが、たまたま今の政府の目から見て、自分たちに真っ向から逆らうものに映るので、けしからん者だと見なされることになる。

 こうした見かたは、必ずしも中立ではなくて、かなり偏ってしまっているおそれが高い。国家がまちがったことをしていて、前川氏が正しいと決めつけてしまってはまずいかもしれない。そのうえで、官僚支配よりも政治主導のほうがよいとも言えるわけだけど、政府が官僚をほしいままに支配してもよいというわけではないだろう。それはそれでまた問題なのではないか。支配されているのであれば、対等な関係ではなく、したがって意見をまともに聞き入れてくれるような環境にもない。そこには、支配する側の理性の頽落化(道具化)もおこりえる。権力の腐敗である。くわえて、下のものを抑圧することによる構造的暴力もおきてくる。そうしたありかたへの反発というのが生じたとしても、とくに不自然なことではないだろう。