現前(プレゼンテイション)を主とした報じかた

 私の意見としては、これをどうすべきかという、べき論を言っているのではない。たんに、政権がこういうふうに見なしていて、こういうふうにやってゆこうとしているだろう、ということを述べているにすぎない。そのように、ジャーナリストの田崎史郎氏はテレビ番組で話していたようだ。政権は有権者の代理人だけど、田崎氏はその政権の代理人だというわけだろうか。

 田崎氏の話していることを信用してみると、このようなことが言えそうだ。田崎氏は、政権を認知することにだけ努めている。そうして認知したものをそのまま報道を通じて流している。これは、ふつうの報道の活動とは、ありかたをちょっと異にしているものであるのはまちがいない。

 報道の活動というのは、認知してそれだけで終わるものとはかぎらないだろう。そこには何らかの評価づけがありうるし、こうしたほうがよいという意見である指令もありえる。これらの要素のうちで、たんに認知だけをするのだと、もの足りないところがあるのもたしかだ。そこには、田崎氏なりの見解というものが表されてはいそうにない。

 偏りが少ないという点でいえば、認知したことをそのまま伝えて終わりでもよいのかもしれない。しかし、そこにだけ集中するようだと、肩透かしをくらうような感もなくはないこともたしかだ。たとえ事実を認知するのであっても、そこには何らかの個人的な価値観が多少なりとも入りこむ。政権の思わくなのか、それとも田崎氏の意見なのかが、混ざり合ってどっちつかずになってしまうおそれもいなめない。そうしたようではなく、あるていど対象から距離をとったほうがよいのではないかという気がする。距離がないことを装うことはできるわけだけど。

 対象との距離がないのだと、批評することができなくなる。自分はそれについて肯定するのか否定するのかだとか、何をとって何を捨てるのかだとか、そういった時々の応じかたは、ずぶずぶ(なあなあ)の関わりだとできづらい。付和雷同みたいにつねにくっついてゆくのではなくて、ときには大胆につき放してしまう、みたいなのがあったほうがよさそうだ。