国連の費用対効果

 国際連合は、なぜ国どうしのもめごとを解決できないのか。これは、たんに解決ができないことをなじっているのと同時に、費用対効果の面もかかわっていそうだ。日本は国として国連にたいしてお金をそれなりに負担しているのにもかかわらず、それが日本の利益として具体的にはね返ってきているのかが定かではない。小言(苦言)さえ言われる始末だ。そこにたいする不満もあるかもしれない。

 国連へお金を払っているのだから、その利益の還流(リターン)がそれなりにあってしかるべきだ。この費用対効果の面は、そこまで意識はしないほうがよさそうだ。国際平和というのは、かなり複雑なものでもあるだろうから、単純に効果が上がっているかどうかを確かめるすべはない。ちょっと例えが不適切かもしれないが、神社やお寺におさい銭を支払うようなものではないか。(先進国であることへの)感謝のために捧げる、みたいなことである。国内では、格差などの問題を抱えていて、解決されていないのもあるわけだけど。

 国連の存在理由というか趣旨というのは、力づくで平和をなしとげることにあるのではないのだろう。できるだけ強制的な力を排除したかたちで、もめごとをおさめてゆく。そうはいっても、国と国どうしのぶつかり合いにはほとんど無力なところもありそうだ。しかし、あんがい、目につきづらい、地味でささやかなところに主として力を注いでいるとすれば、そこを積極的に評価することもできるだろう。病気でいえば、すでに発病してしまったら、あまり手のうちようがない。現代医学で治せる病気の数はあんがい少ない。それよりも、病という形になる前に、未然に防ぐことにも合理性があり、意味があると言えそうだ。防ぎきれてはいないにせよ。

 意思決定の過程なんかが、できるだけ皆が納得できるようになればよいのだろう。いま現にそういうあり方になっているのかというと、そうではないから、不満がおきてしまう。従うのが義務だといっても、それが冷たい義理にならざるをえない。うっぷんによる、心情の面が大きく前に出てきてしまう。これを改めるためには、温かい義理にできればよい。納得しつつ、喜んで参加して従えるようなかたちである。