日本学術会議の問題を、一つではなくて二つの問題として見てみたい―会の問題の有無と政権の問題の有無

 日本学術会議の人の選びかたについてを、一つの問題だと見なす。これについてを一つではなくて二つに切り分けられるとすると、二つの問題がある。

 一つではなくて二つの問題があるといえるとすると、一つには日本学術会議のあり方に問題があるかどうかと、もう一つは政権が日本学術会議になしたこと(介入)に問題があるかどうかだ。

 この二つの問題についてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを場合分けすることができるとすると、四つの見かたがなりたつ。会に問題があり政権の介入にも問題がある。会に問題があり、政権の介入には問題がない。会にも政権の介入にも問題がない。会には問題がないが政権の介入には問題がある。

 これらの組み合わせのうちで政権は会には問題があり(あったから)政権の介入には問題がないのだとしている。政権はこの見なし方をとっているが、じっさいにはこれとは逆で、会には問題はなかったが政権の介入には問題があるとするのが正しいのではないだろうか。政権の見なし方が正しいのではなくてその逆が正しいのである。

 政権のとっている見なし方とは逆のほうが正しいとできるのは、政権が自分たちがなすべき立証や挙証の責任を果たしていないからである。政権が会に介入したことを正当化する理由として持ち出しているものは、飛躍があるものであり、大きなみぞや隔たりが空いているのが目だつ。みぞや隔たりが埋まっていないために正当化ができていない。

 もしも政権が会に介入したことを正当化できるのだとすれば、政権が自分たちがなすべき立証や挙証の責任を果たしていなければならず、これはようは言説が確かでないとならないことをあらわす。言説の質と量が十分にあるのでないとならない。会に問題があったのだと言えるためには、政権が言う言説がそうとうに確かなものであることがいるが、そこがずさんであるために、政権は自分たちを正当化することに失敗している。

 構築主義においては、なにかに問題があると言えるためには、その問題が客観としてあるよりもむしろ言説の確かさのいかんにかかってくる。政権はこの言説の確かさのところがはなはだしく弱い。とにかく数の力で強引に無理やりにでも押し通そうとするのが政権のやり方だ。それは言説をていねいに語って行くやり方とは異なっている。開かれたあり方ではなくて閉じたあり方だ。

 できるだけていねいに言説を語っていって、議論をし合うことに力を注いで行く。そうすることが構築主義において問題をとり上げて片づけて行くためにいることだろう。構築主義においては問題が客観としてあるよりも、問題があるのだ、または問題はないのだ、といった言説の活動に目を向けて行く。そうしたものだとされているのがあり、何についてをどのように言うのかに目を向けて行ける。

 問題が客観にあるとするのではなくて、何についてをどのように言うのかに目を向けられるとすると、政権は言説のところがはなはだしくぜい弱であり、ろくにものごとを語れていない。ただとにかく力で強引に押しまくるといったようになってしまっている。

 政権が言っていることがめちゃくちゃなために、政権が問題をとり上げるのではなくて、それよりもむしろ政権が自分たちで問題を引きおこしてしまっている。その問題とは、構築主義において問題は客観としてあるとは言いづらいのだから、いろいろな言説が下からの帰納によって自由に活発に行なわれるのがいるところが、政治の権力が上から演繹としてこれだけが正しいのだと力によって強引に押し通そうとすることによっている。問題をとり上げて片づけて行くためにいるまっとうな議論が行なわれることがなく、議論が死んでしまっている。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信

集団の中のかたよりと、政治の権力のカタリ―集団のかたよりよりもまず先に政治の権力のカタリをより気をつけたほうがよい

 集団のあり方がかたよっている。与党である自由民主党菅義偉首相は日本学術会議のあり方についてそう言っている。会のあり方がかたよっているからよくないのだという。

 集団のあり方のかたよりと、政治家(政治の権力)のカタリとを比べられるとすると、どちらの方により気をつけるべきだろうか。それは政治の権力のカタリの方だと言えるのではないだろうか。

 このさいのカタリとは否定の意味あいのものであり、政治家がうわべのその場しのぎのとりつくろいや嘘を平気で言うことである。大衆に迎合することを言う。耳に快く響くことを言う。カタリがいっさい駄目だとまでは言えないが、原則としてそれはよくないことだし、度を超えてしまって例外だらけ(カタリだらけ)になってしまってはまずい。

 政治の権力のカタリの方により気をつけるべきなのは、かりに集団のかたよりがよくないのだとすると、政権は自分たちがいちじるしくかたよっているのだから自分たちが解体されるべきだし、政権がいろいろな集団を組織化することができなくなる。

 政権は自分たちをふくめていろいろな集団を組織化しているが、そこにかたよりがおきているのはまぬがれない。政権が組織化する集団の中には、政権にとって都合のよい人が選ばれやすい。政権に甘いことを言う人は中心化されて、きびしいことを言う人は周縁化される。

 政治の政党は英語では party と言うそうであり(political party)、これは部分(part)であることをあらわす。日本の社会の中をまんべんなくくまなくかたよりなく反映している集団とは言えそうにない。あくまでも政党は部分を代表しているのにとどまり、日本の社会の全体を正確に反映しているものだとは言えないものだろう。あたかも政党が日本の社会の全体を正確に反映して代表しているのだと見せかけるのはカタリにあたるものであり脱全体化されなければならない。

 報道のあり方を見てみられるとすると、政権に甘いことを言うことが多くなっていて、政権に同調や服従することが多くおきている。政治の権力の顔色をうかがい空気を読んでそんたくをするたいこ持ちや権力の奴隷が上に引き立てられやすい。政治の権力からの呼びかけにすなおにしたがう主体だ。そのいっぽうで政権の顔色をうかがわずに空気を読まない人はわきに追いやられていてその数は風前のともし火だ。

 政権がカタリを用いすぎることによって、社会の全体にかたよりがおきてしまっている。政権によるひどいカタリがもとになって社会の中にかたよりがおきている。かたよりをよりうながす。かたよりとはいっても許容できるものも中にはあるから、少しでもそれがあってはならないとは言えないものだが、許容できる範囲を超えた不当なかたよりがいろいろにおきていることは否定することができそうにない。

 自由主義(liberalism)においては普遍化できない差別がおこらないようにすることがいるが、これがおきてしまっていて、時の政権が特権化されることが平気で許されてしまっている。権力の濫用がおきていることで独裁や専制の動きがおきていて、権力の行使に十分な歯止めがかかっているとはいえず、抑制と均衡(checks and balances)がきちんととられていない。

 日本の社会の中に色々なかたよりがおきてしまっていてそれが放ったらかしになってしまっているのだとすると、それを何とかするためには政権は日本学術会議のことをやり玉にあげて叩くことにかまけているのは適したことだとは言えそうにない。政権は自分たちのことを自己批判して自分たちを脱中心化するべきだろう。かたよりのもとは政権にあるのであり、政治の権力がカタリを用いすぎることがわざわいしている。政治の権力のカタリが社会の中のさまざまな不当なかたよりを生む。そうした面もあるだろう。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司

日本学術会議の人を選ぶ選びかたをどうするのかで、政権が負うべき具体の義務と、会が負う努力義務のちがい

 日本学術会議の会に人を選ぶやり方にかたよりがある。多様性がない。与党である自由民主党菅義偉首相はそうしたことを言う。政権が会の人事に介入したことによって、結果として会の人を選ぶやり方が改まって多様性が出ればよいとしている。

 菅首相が会の人の選びかたについて言っていることを、具体の義務と努力義務に分けて見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。具体の義務は消極の義務や完全義務だ。努力義務は積極の義務や不完全義務だ。

 消極の義務は自由主義(liberalism)の他者危害原則にあたるもので、これだけはせめて守るべきだといった必須の最低限の線だ。積極の義務はその最低限の線より以上にそれぞれの人が(できれば)よいことをなすのやよいことがなされるのが求められる任意のことがらだ。この二つのちがいはあくまでも相対的なものであり、ときには消極の義務よりも(それにくわえて)積極の義務のほうがより重んじられることが中にはあり、絶対的に固定化しているものだとはかぎらないのはある。

 会の人の選びかたに多様性がなくてかたよりがあるのだと菅首相は言っているが、それは具体の義務にあたるものだとは言えそうにない。具体の義務として、これこれの属性の人をこれくらい会の中に入れなければならないと定量(数量)として会の規則で決められていて、そこに罰則がついているのであれば具体の義務だが、そうはなっていないものだろう。

 あくまでも努力義務にあたることをさも重大なことであるかのように菅首相は言っているが、そのいっぽうで政権が会の人事に介入したことが批判されているのはほぼ具体の義務に近いことだ。政権はどちらかといえば具体の義務に近いことに反することをやったことから批判を受けている。

 どちらの優先度がより高いのかといえば、政権が守らなければならなかったはずの、会の人事に政権が介入しないようにすることだろう。そちらのほうがどちらかといえば具体の義務に近く、それよりも優先度が下がるのが菅首相が言っている会の人の選びかたの多様性についてだ。

 修辞学でいわれる比較からの議論によって優と劣の二つに切り分けて対比して見られるとすると、政権が会の人事に介入しないようにすることのほうが優(優先度が高い)で、それよりも劣(優先度が低い)にあたるのが会の人の選びかたの多様性だが、政権はこの優と劣の差をわざと逆にとらえちがえている。優と劣の優先度のつけ方がちがっていて、具体の義務に近いことを努力義務に引き下げて、努力義務を具体の義務に近いことに引き上げている。

 もともとの優と劣のちがいからすると、菅首相の言っていることには飛躍がおきていて、次元が食いちがってしまっている。その飛躍や次元の食いちがいがおきているのは、具体の義務に近いことを政権が守らずに破っているのにもかかわらず、努力義務をさも具体の義務に近いことであるかのように持ち出してしまっていることによっている。

 会が努力義務を果たせていなくて努力が不十分であったのだとしても、それだからといって政権が自分たちの守るべき具体の義務に近いことを破ってよいことの理由にはならないだろう。菅首相が言っていることは、会が努力義務において努力を十分にしていないことを理由にして、それがあることから政権が自分たちが守るべき具体の義務に近いことを破ってもよいのだと言っているのにほぼ等しい。

 これだけはせめて守るようにするべきだといったことが具体の義務だから、その具体の義務に近いことを政権が破らずに守るようにすることがまず先決なことだろう。その具体の義務に近いことを破ったさいに、それを破った理由として努力義務を持ち出すのだとつながりがとれない。たとえ努力義務における努力の不十分さを持ち出したとしても、それだからといって具体の義務に近いことを破ることとのあいだの関連性を見いだしづらい。

 政権は具体の義務と努力義務とのちがいをとらえられていなくて、それらのちがいがあることをないがしろにしていて、二つをごちゃ混ぜにしてしまっている。おなじ義務であっても、政権が守らなければならなかった、会の人事に政権が介入しないようにする義務のほうがより重みが重い。それよりも重みが軽いことにあたるのが、会の人の選びかたの多様性であり、それはあくまでも努力義務にあたることだろう。

 政権は、自分たちの負っている義務のもつ重みをかってに軽いものにしてしまい、会が負っている軽い重みのところを必要より以上に重くしている。重みづけがおかしくなっているために、政権の言っていることはほんらいつながり合わないことを無理やりに強引につなぎ合わせようとしていて大きなみぞや隔たりが空いているのが目だつ。

 参照文献 『もっと早く受けてみたかった 法律の授業』浜辺陽一郎 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『貧困の倫理学馬渕浩二

大阪府の大阪都構想の住民投票と情報の汚染―情報の中の意図の混入

 大阪府で二回目の大阪都構想住民投票が行なわれた。その結果が出て、一回目とおなじく否決されることになった。一回目と同じように二回目もまた大阪都構想をよしとするのとよしとしないのとでほぼ五対五といってよいようなわずかな差となった。一回目も今回の二回目もわずかに反対派が上回るかたちとなっている。

 大阪都構想住民投票についてをプラスとマイナスの二つに分けて見られるとするとどういったことが言えるだろうか。人それぞれによっていろいろな見かたがなりたつのにちがいないが、その中で、まったくプラスとなるところがなかったとは言えないが、少なからぬマイナスがあったのではないだろうか。

 プラスとなることつまり順機能(function)もあっただろうが、マイナスとなるところつまり逆機能(dysfunction)もあったことによって、いろいろなゆがみやひずみがおきているおそれがある。そのゆがみやひずみの一つとして、二回の大阪都構想住民投票にかけた税金がそれなりの額にのぼっている。この税金はもっとほかの有意義な使いみちがあったのではないだろうか。

 大阪府はとても大きな地方自治体であり、そこで住民投票を行なうのは、それなりのもよおしとなる。どうしてもお祭りさわぎのようになってしまうところがあり、着実に地道に政治の話し合いをやって行こうといったことにはなりづらい。とにかく住民投票をやってとにかく勝ちさえすればそれでよいのだといったところが大阪府と大坂市の政治をつかさどる日本維新の会にはあったのではないだろうか。

 ことわざで言われる勝てば官軍のようにして、とにかく住民投票をやってとにかくたった一票でも上回ることによって勝ちさえすればそれでよいのだとする。そこに欠けてしまっているのは、負けたことのさまざまな意味あいを読みとることだろう。一回目の住民投票ではわずかに反対派が上回ったのがあり、そこで負けの結果が出たことから日本維新の会はもっといろいろな意味あいを学びとることができたとすると、それができたらよかった。日本維新の会はもっと科学のゆとりを持てたほうがよかったかもしれない。

 たんに表面として住民投票で負けの結果が出たと受けとるのではなくて、それがあらわしているいろいろな意味あいを読みとることもできただろう。勝つことよりも負けることからのほうがよりいろいろなことを学ぶことができるのがある。野球の野村克也監督がいうように、負けに不思議の負けなしである(もしかしたら例外はあるかもしれないが)。

 日本維新の会は負けの結果からいろいろな意味あいを読みとることを怠っていたのだとすると、それができていたほうがよかった。それができていれば、二回目の住民投票を行なうことにもっとずっと慎重になれた見こみがある。新型コロナウイルス(COVID-19)が広まっている状況の中であるのにもかかわらず住民投票を行なうことについてふみとどまれたのがあるかもしれない。もっと科学のゆとりを持つことができた見こみがある。

 住民投票が行なわれている中では、新聞社の記事について日本維新の会の政治家や関係者がデマだとか大誤報だとかといったことを言っていた。記事がデマか大誤報かといったことより以前に、そもそもの話としていろいろに流通している情報の中に汚染が多すぎている。汚染とは意図のことだ。政治性や作為性だ。いろいろな意図が含まれた情報がいろいろに流されているから、その汚染がどれくらいかのていどのちがいにすぎない。ひどい汚染の情報も平気で流されてしまっている。それがおきてしまっているのは、勝てば官軍といったことで、とにかくたった一票でも上回って勝つことができさえすればそれでよいのだといったことから来ているものだろう。

 盛り上がりはするのだとしてもいろいろな必要より以上の汚染された情報が多く流されてしまうのでは、複雑な現実をなるべく正確にとらえながら政治についてを話し合って進めて行くことはできづらい。たとえ盛り上がりに欠けるのはあるのだとしても、できるだけ静かに政治についてを話し合うようにして、汚染された情報が多く流れないようにして、汚染の度合いを少しでも減らして行く。その中で複雑な現実をくみ入れながらかんたんに現実を単純化しないようにしつつ話し合いをして政治のものごとを少しずつ進めていったほうがどちらかといえばよいのではないだろうか。

 参照文献 『静かに「政治」の話を続けよう』岡田憲治(けんじ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり)

大阪府の大阪都構想の住民投票は、そもそも行なわれるべきだったのだろうか―絶対的で客観的な必要性があったかどうかは定かではない

 大阪府では大阪都構想住民投票が行なわれている。大阪都構想がよしとされるのかそれともよくないとされるのかは結果が出てみないとわからない。それとは別に、そもそも大阪都構想住民投票そのものを行なうべきだったのだろうか。

 大阪都構想住民投票が行なわれて、そこでそれがよしとされるかよくないとされるかが争われるが、それとはちがった視点として、大阪都構想住民投票を行なうことそのものがよいことだったのかよくないことだったのかを見てみたい。

 大阪都構想そのものについてを見てみられるとすると、その住民投票が行なわれることがまちがいなくよいことだったのだと完全にしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらい。住民投票を行なわないほうがよかったのだと見られるのもまたあるだろう。それを行なわないほうがよかったかもしれないのは、すでにもう一回ほど過去に住民投票が行なわれて結果が出ているし、かついまは新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が拡大しているさなかだ。

 必要性の点から見てみられるとすると、大阪都構想住民投票そのものは、すでに過去に一回ほど行なわれて結果が出ていることだし、またウイルスの感染が広がっているさなかの状況なのもある。なにをなすべきかの優先順位としては、ウイルスの感染に対応するよりもより優先度の高いものとして大阪都構想住民投票があるのだとは見なしづらい。住民投票をすることの必要性は客観としてそこまで高いとは言えないだろう。

 どのようにすることが最適化につながるのかと言えば、大阪都構想住民投票そのものを行なうのではなくて、それを行なわなかったほうがより最適化されたおそれがある。どうしてもいまの時点でなにがなんでも住民投票を行なわなければならないとは言い切れないから、住民投票を行なうことは理想といえる大局の最適になっているとは言い切れそうにない。よくても局所の最適化にとどまっているものだろう。

 住民投票をすることとしないこととを対比して見られるとすると、それをすることがまちがいなく最適化につながるのだとは言い切れず、しないほうがより最適化される見こみがあった。しないほうがより最適化されることになったのだとすると、理想といえる大局の最適に確かに近づいていっているのではなく逆により遠ざかってしまっている。住民投票をすることで理想の大局の最適にまちがいなく確かに近づいて行けているのだとは言えそうにない。

 理想の大局の最適から遠ざかっている中で、大阪都構想をよしとするかよしとしないのかが争われているのがあるとすると、大阪都構想住民投票を行なうことにまちがいなく意味や価値があったのだとは見なしづらいところがある。

 科学のゆとりをもつことができるのだとすると、とにかく住民投票を行ないさえすればそれがよいことなのだとはしないようにして、それを行なわないこともまたあってもよかったかもしれない。それがあってもよかったかもしれないのは、とにかく住民投票をやってしまえといった勢いでやるやり方よりも、ウイルスの感染が広まっている状況を十分にくみ入れるようにするべきだし、すでにもう住民投票は過去に一回ほど行なわれて結果が出ているものだからだ。

 ウイルスの感染が広がっている状況や、過去にすでに一回ほどやって結果が出ていることをふまえれば、住民投票をいまの時点でやることにまちがいのない意味や価値があるとは必ずしも言えそうにはなく、科学のゆとりをもつようにしてもよかった。そのゆとりをもつようにして、とにかくやってしまえといった勢いでやるのではなくて、さまざまにある論点を分析(分割)するやり方でやるようにして行く。

 分析のやり方によっていろいろな個別の具体の論点に細かく分けるようにして、そのそれぞれをとり上げるようにして行く。一つひとつの個別の論点を明らかにして相対化して行く。そういった分析のやり方をとるようにして、それで一つひとつについてを細かい歩みによって少しずつ最適化することを試みて行くやり方もまたあるだろう。

 分析によるやり方はたしかな一つの方法によるものではなくあくまでもがい然性の試みによるものだ。絶対性や確実性ではなくて相対性や不確実性による。絶対性や確実性は近代の純粋な方法主義による。相対性による分析のやり方は二分法で一か〇かや白か黒かをきっちりと完全に明らかにして行くものではなくて、その中間のていどを見定めて行くやり方だ。じっさいに行なわれている大阪都構想住民投票では、二分法による白か黒かのたしかな一つの方法としてどれがふさわしいのかや正しいのかを争い合うものとなっているようにも見うけられる。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『トランスモダンの作法』今村仁司

日本学術会議の人を選ぶ選びかたをどうするのかを個別論と一般論で見てみたい―日本の社会は抽象的な一般論が行なわれづらい

 会の中には旧帝国大学の出身者が多い。私立大学の所属の人が少ない。日本学術会議の中にはそれが見うけられるのがよくない。与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っている。

 菅首相がいうように、会の中に旧帝大の出身の人の割り合いが多いのはよくないことなのだろうか。私大に属している人の割り合いが多いほうがよいのだろうか。どこまでが許容できることでどこまでが許容できないことなのだろうか。

 個別論と一般論に分けて見られるとすると、菅首相の言っていることは個別論にかたよりすぎている。そうであるために、日本学術会議のあり方だけを単体でとり上げることになってしまっている。

 菅首相は個別論にかたよりすぎているために、視野が狭窄していて、日本学術会議のことだけをやり玉にあげてしまっている。それだけをやり玉にあげてしまっていることによって、ではほかの集団や組織はどうなのだといったことが見えなくなってしまっている。

 一般論で見るようにして、一般として日本の社会の中における集団や組織のあり方としてどういったあり方がのぞましいと言えるのかを見るようにして行きたい。一般論が欠けた中で個別論を言っても、ある個別の集団のおかしさを言うだけにとどまり、ほかの集団や組織はどうなのだといったことがとり落とされることになる。

 ある個別のことで言えることなのであれば、それ以外の多くの集団や組織にもまた同じことが言えなければならない。そうでないと同じものについては同じあつかいをすることがいるものである正義の原則に反する。

 正義の原則に反したことをしてしまっているのが菅首相の言っていることであり、それがおきているのは菅首相が個別論にかたよりすぎているからだろう。一般論で見て行く視点がとれていない。日本学術会議は個別の会だが、それだけではなくて日本の社会の中にはいろいろな集団や組織がいっぱいあるのだから、それらを漏れなくだぶりなくくまなく見て行く。MECE(相互性 mutually、重複しない exclusive、全体性 collectively、漏れなし exhaustive)である。

 MECE で漏れなくだぶりなくくまなく見て行くことをせずにたんに日本学術会議の個別のことだけをとり上げるのであれば、個別論にとどまることになり、一般論がとり落とされてしまう。木を見て森を見ずといったことになってくる。

 日本の社会では具体の個別の木をやり玉にあげることは行なわれやすいが、それを抽象して一般化して全体を構造としてとらえて行こうとすることが苦手なのがいなめない。具体の個別の木のことではなくて、森の構造の問題をとらえることが行なわれづらい。なにかその時点において弱みがあり標的にされていて可傷性(vulnerability)をもつ具体の個別の木(日本学術会議など)を見つけていってそれを排除してこと足れりとなるのではあまり意味がない。政治の権力の虚偽意識が強まりはするとしてもそれへの批判が欠けたままになる。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『リベラルアーツの学び方』瀬木比呂志(せぎひろし) 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司

選挙で出た結果がどうかと、選挙で不正が行なわれた(行なわれ方が悪かった)かどうかの関連性

 アメリカの大統領選で現職のドナルド・トランプ大統領が大統領に再選されない。再選されないのだとしたらそれはおかしいことだからその結果を受け入れることをこばむ。トランプ大統領はそうしたことをほのめかしている。

 日本では大阪府大阪都構想住民投票が行なわれているが、もしも都構想が否決されたらそれは無効だ。そういったことがいわれていた。

 選挙の結果が自分の意にそわないものだったさいに、それを受け入れないようにすることはふさわしいことなのだろうか。許容できる範囲の内にあることなのかそれとも外にあることなのだろうか。

 選挙の結果がもしも自分の意にそわないのであれば、選挙で不正が行なわれたのにちがいない。そう見なしてしまうと陰謀理論を持ち出すことになってしまう。そのことを逆(対偶)から見てみられるとすると、選挙で不正が行なわれていないのであれば、選挙の結果が自分の意にそうものだったことになる。

 自分の意にそうことばかりではなくて、自分の意にそわないことが選挙の結果として出ることは少なくはない。だから、たとえ自分の意にそわないことが選挙の結果として出たのだとしても、それだからといって選挙で不正が行なわれたことを必ずしも意味するものではないだろう。不正が行なわれたり、選挙のとちゅうの過程が適正に行なわれなかったりしたと絶対的に結論することはできづらい。

 選挙のあり方(やり方)とその結果を二つに切り分けられるとすると、この二つは固定化して結びついているものではなくて、いくつかに場合分けすることがなりたつ。選挙のあり方がよくても結果が自分の意にそわないことがある。選挙のあり方がよくて結果が自分の意にそうことがある。選挙のあり方が悪くて結果が自分の意にそわなかった。選挙のあり方が悪いが結果は自分の意にそった。

 場合分けをしてみると少なくともこれらのことがありえるから、これらのうちのどれが当てはまるのかはいちがいに言うことはできづらい。選挙の結果が自分の意にそわなくて思わしいものではなかったさいに選挙のあり方がよくないものだったとしてしまうと、場合分けをしたさいの一つのことをとり上げるのにすぎない。ほかのこともまたあるからそれをとり上げることがいる。

 べつの点から見てみられるとすると、選挙で出た結果がいついかなるさいにも正しいとは言い切れないから、結果と正しさを必ずしも固定化して結びつけることはいらないものだろう。あくまでも結果は結果として、それとは別に正しさがあるとしてもよいのがあるから、結果を受け入れつつ、それとは別に正しさもまたあるとすることはできないことではない。

 選挙でまちがった結果が出ることは、歴史においてはナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーがドイツの国の長として選ばれたのがあげられる。ナチス・ドイツに見られるように選挙では悪いものが選ばれることがあるし、結果がいつも正しいものだとはかぎらないから、結果はいついかなるさいにも正しいものだとか、いついかなるさいにも正しいものでなければならないとまでは言えそうにない。

 一か〇かや白か黒かの二分法におちいるのを避けられるとすると、かりに選挙においてとんでもない不正が行なわれたとすればそれは問題外だが、それはわきに置いておけるとして、選挙の結果は基本としてていどの正しさにすぎないものだろう。まったく疑いを入れないほどのとんでもなく正しい結果が出るものだとは言えそうにない。いわばせいぜいが中間的な正しさが出るくらいのものであり、絶対の正しさではなくて相対的なものにとどまっている。

 選挙のあり方が十分によいものだったのかどうかについては、その点を現実主義で見られるとすると、現実にはいろいろな制約がつきまとう。理想主義からすれば、まったく現実の制約がないくらいに理想的な環境や状況のもとで選挙が行なわれることがのぞましいが、それは現実にはのぞみづらい。

 日本の選挙のあり方にはさまざまな問題点があげられていて、日本の国がつくられた明治の時代の古い発想がいまだに引きつづいているとされる。古い発想がいまだに引きつづいているので、公職選挙法がいまの時代にぴったりと合っていないでずれている。戦前や戦時中はお上が国民(臣民)ににらみをきかせて国家の公が肥大化していて個人の私がおしつぶされていたが、そのときの名残りがいまだに引きつづいている。国家主義の国家の公が肥大化して国家がのさばるあり方が十分に改められていない。

 候補者は選挙カーで自分の名前を連呼するといったひどくていどの低い活動が行なわれつづけている。日本の選挙のあり方をきびしく見られるとすれば理想のあり方にはほど遠いものだろう。それを甘く見なせるとすれば、いろいろな制約があるからしかたがない面も一部においてはあるだろう。理想の大局の最適にはなっていないが、現実においては局所の最適化になっていて、きびしくみれば局所の最適化のわなにはまっている。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治の相対主義の表現だと言っているという。絶対的に二分法によって一か〇かや白か黒かをその時点においてきっちりと完全に明らかにするものだとは言えそうにない。選挙の結果が自分の意にそうような思わしいものだったからその結果は絶対に正しいものだとしたて上げたり基礎づけたりできるものではないだろう。それとおなじように、選挙の結果が自分の意にそわないような思わしくないものだったからといってその結果は絶対にまちがったものだとしたて上げたり基礎づけたりできるとはかぎりそうにない。

 参照文献 『「ロンリ」の授業』NHK「ロンリのちから」制作班 野矢茂樹(のやしげき)監修 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房現代思想を読む事典』今村仁司編 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)

日本学術会議の人を選ぶ選びかたをどうするのかと、(そもそもの話として)人が人を選ぶことの困難さ―脱産業社会の中で人を選ぶことができづらい状況になっている

 会に人を選ぶ選びかたに多様性がない。多様性がとぼしい。社会の中の官から民までいろいろな人が選ばれていない。日本学術会議の人を選ぶあり方について、与党である自由民主党菅義偉首相はそうしたことがよくないのだと言っていた。

 菅首相が言うように、日本学術会議の人の選びかたにはいろいろによくないところがあって、画一化してしまっているのだろうか。ひどくかたよりがありすぎるのだろうか。そのかたよりは許容できる範囲の内にあるのかそれとも外にあるのだろうか。

 多様性についてを菅首相は持ち出しているが、多様性とはいってもそれはあいまいな意味あいをもつ。多義性がある。なので、何が具体として多様性があることになるのかはわかりづらく、線引きを客観にはっきりとは引きづらい。修辞学でいわれる多義またはあいまいさの虚偽におちいるのに気をつけるべきだろう。

 日本の社会は同質性が強いために、多様性の語にプラスの意味あいがもたれづらい。多様性があることは、自分と合わない人がいることに自分が耐えることやがまんをすることだといった否定の意味あいでとらえられていることがある。これは現実主義のとらえ方だが、それとはちがう理想主義の意味あいもあり、多民族がいっしょに混ざり合って生きている社会においては多様性の語はプラスの理想主義の意味あいでとらえられやすいとされる。

 かたよりがないように人を選ぶことができるのかといえば、それは難しいのがあり、たとえ菅首相が自分で人を選んだとしても、そこにははなはだしいかたよりがおきるものだろう。

 いまの時代に人が人を選ぶことには困難さがつきまとう。それが言われているのがある。いまの時代はただ決まりきった型に従って生きて行けばよいのではなくて、その型が崩れて久しい。大量生産と大量消費の産業社会のときにはあるていどの型があったが、脱産業社会になっていることで型がなくなっている。型による標準がなくなっている。よい学校を出て安定したよい会社(大企業など)に入って人生が安泰になるといった産業社会の学歴の型が通じなくなっている。

 脱産業社会の中では社会の中の人の生き方が多様化している。みんなが正社員になれるのではなく、なれる人もいればなれない人もいて、非正規社員も多い。人それぞれでいろいろになっているが、社会の中の制度がそれに合わなくなっていて久しい。制度が硬直化してしまっていて、柔軟性がなく、制度にいろいろな穴が空いている。いまだに産業社会のときの型や標準があったときの制度が引きつづいてしまっている。

 脱産業社会の中では個人の創造性が求められるが、創造性があるかないかを見きわめるのははなはだしく難しく、そこから人が人を選ぶことの困難さが引きおこってくる。創造性のあるなしの点から人を見抜くことや目利きをすることはできづらい。それができづらいことの具体の例としては、他国のことを持ち出してはまずいかもしれないが、アメリカの大統領などがあげられる(あえて日本の国の政治については言わないが)。これは学者のローレンス・J・ピーター氏のいうピーターの法則に通じるものだ。

 政権が人を選ぶさいにも、多様性の点から人を選んでいるのではなくて、たんに政権の顔色をうかがってそんたくをしてくれるたいこ持ちや権力の奴隷が選ばれやすい。政権に自発に服従してくれて、権力からの呼びかけにすなおに従ってくれる人が政権から選ばれやすい。そこにいちじるしく欠けているのが創造性だ。

 政権と学者の世界を対比してみると、政権は政治家の集まりであり、とくに何の専門家でもないものだろう。政治家は選挙で選ばれさえすればたとえ素人でも政治家になれる。政治家だからといって政治の一般についての専門家とは言えない。

 政治家は政治の権力をもっている点で権威ではあるが、その権威は信じられるよりも疑われたほうがよいものだろう。そのいっぽうで学者の世界の権威は、細分化されたいろいろな分野における権威だし、それらを総合した学問の分野の権威であり、あるものごとの専門性をもっている。

 政治家の権威とはちがって学問の世界の権威であれば、そこでの総意によるのであればその権威は受け入れられることに論理的な合理性があるていどあるとされる。ある専門の分野においてかんかんがくがくのはげしい論争が巻きおこっているものではなくほぼ総意となっていることについては、受け入れたほうが論理的に合理的であり、その合理性とは説における定説と独自説のちがいである。

 定説と独自説ではちがいがあり、どちらかといえば政権が言っていることは独自説の見こみがある。政権は何かの専門家とは言えないから、政権が言っていることがすぐに定説になるわけではなく、せいぜいが独自の説にとどまるものだろう。

 政治家の言うことに比べれば定説になりやすいのが学者の世界であり、学者は学問の専門家であり、また何かの細分化されたところの専門家でもあるから、その世界の中でかんかんがくがくのはげしい論争になっていなくて、ほぼ総意が得られているのであれば、それは定説のようなものと言ってよいものだから、その権威は受け入れることに論理的な合理性があるものだろう。少なくとも政治家が言っていることよりはおそらくは合理性が高いものだとできる。

 定説となるようなことを言えずにせいぜいが独自の説にとどまるのが政権の言うことだが、これはそもそもの話として政権が日本学術会議や学問の世界についてをろくにわかっていないのにもかかわらずなぜかわかっているかのようにしてしゃしゃり出ていって首をつっこんでいることからもうかがえる。もともとそうであることがわかっているために、政権がしゃしゃり出ていって首をつっこまなくてもよいように形式がなっているし、政権が首をつっこめないように形式がなっていた。その形式の慣習を政権(まえの安倍晋三前首相のときから)が破ったのがある。

 政権にはもともと定説となるような説を形づくる力がないし、せいぜいが言えても独自の説にとどまるのがあるから、それをくみ入れた形で形式がつくられていたのがある。そういうふうに形式をとらえることができるとすると、その形式の持つ意味あいがとらえられていずに、また日本学術会議や学問の世界がもつ意味あいをとらえられていないから、政権がそのことについて創造性をもてるのだとは見なしづらく、できたとしてもきわめて創造性が低いことにとどまるのではないだろうか。

 もともと政権が日本学術会議や学問のことについてもつ創造性は低いのだから、そのことがくみ入れられた形で、政権がいちいちへたにしゃしゃり出ていって首をつっこまなくてもよいように形式がつくられているのがあり、政権はその形式を守っていたほうが安全だったのではないだろうか。形式を守ったうえで、もしもまずいところが客観にあると言えるのであればそれをとり上げるようにしたほうがさしさわりは少なかっただろう。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘

日本学術会議の問題を、形式論と実質論と、事前と事後に分けて見てみたい―政権は事前の形式論が欠けている

 説明できることとできないことがある。説明できないことも中にはあるのだから、すべてのことについてを説明することはできない。自由民主党菅義偉首相はテレビ番組の中でそうしたことを言っていた。

 日本学術会議の人選で政権はこれまでの慣習を破るようなことをやったが(安倍晋三前首相のときから破りはじめた)、それは首相がテレビ番組の中で言うように説明できないことにあたるのだろうか。だから説明をしなくてもよいのだろうか。

 そもそも政権が慣習を破ったことがどういうことなのかについてを、形式論と実質論と、事前と事後に分けて見てみたい。

 なぜ政権がなしたことについて批判が行なわれているのかといえば、政権が形式論をないがしろにしてそれが欠けた形でじかに実質論をとっているからだろう。形式論をないがしろにしてじかに実質論をとるのは、実質の正しさそのものをとろうとするものであり、形式が欠けているぶんだけ弱くなりがちだ。形式による支えがない。

 じかに実質の正しさをとろうとするのではなくて、いっけんすると遠まわりになってしまうのはあるが、形式論によって決められた手つづきをしっかりととるようにしたほうが、形式による裏打ちをとることができるので強くなりやすい。形式の支えをのぞめる。

 いきなり実質の正しさをとろうとすると、いっけんするとてっとり早いようではあるが、かえって遠まわりになることがある。何が正しいことなのかは客観にはわからないことだからだ。それはわかりづらいことなので、いっけんすると遠まわりに思えるのはあるが形式の手つづきで決められたことを守ったほうが相対的な正しさをとりやすい。形式と実質は相関しているものであり、形式がしっかりととれていれば相対的な実質の正しさを得やすく、形式が欠けていると実質もまた損ないやすい。

 いきなりじかに実質の正しさをとることがもしも正しいことになるとすれば、法学者のカール・シュミット氏が言ったとされる決断主義くらいだろう。平時ではなくて危機や混乱のときには主権者(政治家)の思いきった決断がいるのだとする。それがいかなるものであったとしても決断することに値うちがある。現実の政治に見られるまどろっこしい調整や妥協ではなく大胆な決断をすることこそが政治だ。味方と敵とのあいだに分断線を引く。この決断主義ははなはだしく危ないところがあり、ナチス・ドイツが独裁主義や全体主義を行なうことに悪用された。

 政権は形式の手つづきのところをすっ飛ばして、じかに実質の正しさをとろうとしているので、形式の裏打ちを欠いていて、そのことでいろいろな批判が投げかけられることになっている。これは政権が自分たちでまねいたことだが、それをあたかも他のもの(日本学術会議など)が悪いのだとして悪いことをなすりつけてしまっている。悪いことのもとは政権にあるのだからそれを引き受けなければならない。

 かりに日本学術会議のあり方が悪いのだとしても、それはあくまでも事後にそれをとり上げるのがふさわしいものだろう。それをとり上げることができるのは、時点としては事後のことであり、そのまえに事前として形式による手つづきで決められたことをきちんと踏んでいなければならない。政権は事前において形式の手つづきを踏んでいないですっ飛ばしていて、それによってそこについて批判の声が投げかけられている。

 どのような段どりの手順を踏むことがふさわしかったのかといえば、まず政権は事前において形式の手つづきで決められたことをしっかりと守るようにするべきだった。それが守れたうえで、事後において日本学術会議のあり方にもしも悪いところやまずいところが客観としてあるのだと言えるのであればそれをとり上げるようにすることはとくに問題となることではなかった。

 これの次にはこれをやるといった踏むべき段どりの流れを政権は踏めていなくて、段どりの流れがめちゃめちゃになっていて、事前と事後の切り分けができていない。事前についてのことを事後のことを持ち出すことによってごまかそうとしている。段どりの流れがめちゃめちゃで、事前と事後についてをしっかりと切り分けられていないために、論理学や修辞学でいわれるくん製にしんのようなごまかしが行なわれている。

 事前の次に事後を行なうことがいり、政権は事前のことができていないで批判の声が投げかけられているので、事前のことについてを見て行くようにすることがいり、事後のことは後まわしだ。事前のことについてをとり上げることが、修辞学でいわれる先決問題要求となることだ。その先決問題要求が片づいてから事後についてをとり上げるようにすることがいるが、それが片づいていないのにもかかわらず政権は事後のことを持ち出している。先決問題要求である事前のことについてが放ったらかしになってしまっていて、政権の立証や挙証の責任(説明責任)が果たされていない。

 形式論がとれていなくて実質論だけによっていることによって、建て物でいうと土台が軟弱でゆるゆるなところに大きな建て物を建てようとしているのが政権であり、そのために耐震強度がまったくない。ちょっとつついただけで崩れてしまう。それを権力のごう慢さ(hubris)で無理やりに乗り切ろうとしているのではないだろうか。

 もしも何かを改めようとするのであれば、それにはそれなりの形式論を踏むことがいり、そうしないと必要な耐震強度を得られない。地盤が軟弱でゆるゆるなのであれば、そこに大きな建て物をいっきょに建てようとするのではなくて、せめてそろそろと小刻みに歩みを進めて行くことがいる。むぼうな建て物の建て方をするのであれば、建て物が崩れ落ちていろいろな被害が大きく出ることがおきるおそれがあり、その応報(むくい)の責任は(政権が自分たちでまねいたことなので)政権にあるだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『いまを生きるための思想キーワード』仲正昌樹(なかまさまさき)

日本学術会議についてをどうするのかと、枠組み(立ち場)どうしのずれ―ずれがきちんととり上げられていなくてあたかもずれが無いかのようにされてしまっている

 日本学術会議の人選には色々とおかしさがある。与党である自由民主党菅義偉首相はそのおかしさを言ったという。いろいろにおかしいところがあるから、会の人選やあり方を変えることがいる。変えることが正当だ。そういうことだろう。

 たしかに、会のあり方が完ぺきに正しいとは言い切れないのはあるかもしれない。合理性に限界をもつ人間のやることなのだから、何ごとも叩けば少なくてもほんの少しくらいはほこりは出るものかもしれない。非の打ちどころがないくらいにあり方が完ぺきに正しいとはいえないにしても、いろいろにおかしいところがあると(あくまでも菅首相から見て)いえることから、会のあり方を変えることが正しいことになるのだろうか。

 一か〇かや白か黒かの二分法をもち出せるとすると、菅首相がとっている立ち場は、会のあり方を変えるのが正しいとする二分法による仮説だ。二分法におちいっていることによって、一方の立ち場だけが絶対に正しくて、他方の立ち場はまちがっているとしてしまう。どちらかの仮説だけが絶対に正しくて、もう一方の仮説は絶対にまちがっているとするのは、単純すぎる分け方だ。とりわけ政治の権力による仮説をあたかも最終の結論のごとくに見なすのにはまちがいの危険性がある。

 二つの枠組みどうしが対立し合っているとして、どちらの枠組みがはたして正しいと言えるのかを見て行く。そのさいに菅首相がとっているのは、片一方の枠組みだけが正しいとするものだ。もう一方の枠組みをとり落としてしまっている。菅首相がとっていないもう一方の枠組みのほうが正しいのではないかとの見かたを切り捨てている。

 会の人選やあり方を変えることが正しいとする菅首相による枠組みは、それを絶対に正しいものだとして基礎づけたりしたて上げたりすることはできづらい。それとともに、菅首相がとっている枠組みと対立するもう一つの枠組みについてを絶対にまちがっているものだとして完全に基礎づけたりしたて上げたりすることもまたできづらい。

 もしも枠組みどうしがお互いに合っているのであれば、たとえば会の人選やあり方を変えるのなら変えることでお互いが一致していることになる。変えることでお互いに枠組みが一致しているさいに、ではどのようにあり方を具体として変えて行こうかを探って行ける。どのようにあり方を変えたのなら、これまでよりもいっそうよりよいあり方に改まるのかや、よりよいあり方により最適化されることになるのかを探って行く。逆により悪くなってしまっては意味がないからそうなることを防ぐ。

 お互いの枠組みどうしが合っているのではなくてずれているのであれば、枠組みどうしのあいだを見ることがいる。あいだを見ることがいるのは、枠組みどうしがお互いに合っていないためだ。合っていないでずれているのだから、あたかも合っているかのように見なすのはおかしいことだろう。合っていないでずれていることをとり上げるようにして、そのあいだを見て行く。どちらの枠組みもまちがっているおそれがあるし、いっぽうの枠組みが正しいとするのだとしても、ほんとうはそれと対立し合う他方の枠組みのほうが正しいおそれをくみ入れないとならない。

 菅首相がやっていることは、枠組みどうしのずれがあり、合っていないのにもかかわらず、それを否定してしまっている。あたかも枠組みどうしが合っているかのようにしてしまっていて、会の人選やあり方を変えることありきで無理やりに力ずくでものごとをおし進めようとしている。それありきでやってしまうと、枠組みどうしが合っていなくてずれていることがとり落とされる。

 西洋の弁証法では、正と反と合があるが、正つまり合とするのは近道を行くことだ。たいてい政治の権力が何か悪いこと(違法なことなど)や失敗をしでかすさいにはこうした近道を行くことが行なわれやすい。効率はよいが適正さが欠けている。そこを改めるようにして適正さをきちんととるようにして行く。近道ではなくて逆に遠まわりを行く。

 正つまり合と近道を行こうとするのではなくて、正と反の対立のあいだのところのずれを十分にとり上げて行く。正つまり合の近道を政治の権力にかんたんにはさせないようにする制度の仕組みが法治主義や法の支配や立憲主義(憲法主義)や自由主義(liberalism)だが、これらが損なわれてしまっている。遠まわりをするのはうとましいとかめんどうくさいとか邪魔くさいとされてしまっていて、近道を行くことがよしとされてしまっている。正つまり合の近道を行くことがおきやすくなっている。効率はよいものの適正さが欠けやすい。ことわざでは急がば回れと言われている。

 枠組みどうしが合っていなくてずれているお互いのあいだのところをすくい上げるようにして、そのあいだのところを見て行く。あたかも枠組みどうしが合っているかのように見せかけてはならない。そうしないと緊張(tension)が和らいでおさまることにはなりづらく、緊張がたまりつづけることになりかねない。争点が解消されることにはなりづらい。

 何をなすべきなのかといえば、政治の時の権力が自分たちの仮説を絶対視して力づくで無理やりに強引に自分たちがやろうとすることをおし進めることだとは言えそうにない。こうするべきだと政権が見なすことを絶対に正しい最終の結論とするのではなくて、それを相対化するようにして、対立し合っていてずれている枠組みどうしの緊張を和らげて争点を解消することを目ざす。それを乱暴にではなくできるだけていねいにやって行くことがのぞまれる。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『考える技術』大前研一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太(そうた)