世界から核兵器をなくして行くことにつながる国際条約の成立と、日本の国の政治の創造性の低さ

 核兵器国際法で禁じるための条約が成立する見通しが立ったという。これが成立するためには世界の中で五〇カ国の参加が必要だったが、それが現実に集まることに成功した。

 日本はこの国際条約には参加していず、参加している五〇カ国の中には入っていない。日本は世界で唯一の被爆国なのだからこれに参加するべきだとの声がいろいろなところから投げかけられているが、与党である自由民主党の政権は参加をこばみつづけている。政権の官房長官が言うには、日本には日本のやり方があり、日本はあくまでも日本のやり方で行くのだとしている。

 政権は日本のやり方で行くのだとしていて、そのことについては現実主義などとのかね合いもあることから全面的にまちがっているとはいえないものの、そのことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを創造性の点から見てみられるとすると、日本の国の政治のやっていることは創造性がいちじるしく低いのだと言わざるをえない。

 政権が言っているように、日本には日本のやり方があり、それをやって行くのだとするのは、創造性の低いやり方にとどまりつづけることだろう。そもそも日本の政権は核兵器を世界からなくして行こうとする能動の動機づけ(motivation)をほとんど持っていない。ことがらそのものにたいする関心である内発の動機づけがないために、自分たちから能動で動こうとはしない。お金になるとか、人気度や支持や票の数値(量)が高まるとか、そういった外発の動機づけでしか動こうとはしない。

 日本がかかえている過去の負の歴史についてをできるだけ見たくはないのが日本のいまの(これまでの)政権だ。日本の過去の負の歴史をできるだけ明るみにしたくはなく、隠しておきたい。明るいところだけをとり上げたい。景気のよいところだけを見たいのである。

 過去の負の歴史をきちんととり上げるようにして、そこを見て行くようにすることは、資源(resource)を有効に生かすことにつながって行く。日本のいまの政権はこれができていないために、日本の社会の中にいろいろにある資源が生かされていない。そのために政権がやることの創造性がいちじるしく低くなってしまっている。

 少しでも政権が創造性を高めようとするのであれば、世界から核兵器をなくして行くことにつながる国際条約にきちんと参加するべきである。それに参加しないのは、世界で唯一の被爆国である日本のやるべきことだとは言えそうにない。世界から核兵器をなくしていって、軍事力を縮小して行くために、いろいろにやることがいる必要条件となるものはすべて漏らさずにやって行くくらいでないと目標を達することは難しい。

 世界から核兵器をなくしていって軍事力を縮小して行くようにする目標とは別に、日本の国がほんらいもてるはずの創造性のていど(水準)からいちじるしくそのていどが下がってしまっているのがある。それは主として政権の怠慢およびごう慢(hubris)のせいによっている。ほんらいもてるはずのていどの高さよりもいちじるしく低くなってしまっているのにもかかわらず、それをそのまま放ったらかしにしているのが政権であり、それを少しでも引き上げてほんらいのていどに戻そうとせずに、引き下げたままにとどめてしまっている。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『幻想の抑止力 沖縄に海兵隊はいらない』松竹伸幸

日本学術会議についての脱構築のやり方のよし悪し―乱暴なやり方はよくない

 日本学術会議をなくせ。会を廃止するようにせよ。会は中国の共産党との関わり合いがあり、日本の国にとってよくないものなので日本の国の益に反する。新聞の意見広告ではそういったことが言われていた。これは現代思想の用語で言われる脱構築(deconstruction)だと見なすことができるかもしれない。

 どのようにして日本学術会議脱構築することが正当なやり方につながるだろうか。そのさいに、頭ごなしに悪いとかだめな会なのだとする悪玉化をしてしまうと乱暴なやり方になりかねない。一面性の見かたにおちいることになる。

 完全に白だとしたり完全に黒だとしたりするのであれば、そのあいだにある中間がとり落とされてしまう。中間が欠けた一〇割の白や一〇割の黒とすることについてを脱構築することがなりたつ。一〇割の白や一〇割の黒としてしまうと、一か〇かの二分法におちいってしまう。

 会についてをどのように見なすのかでは、それをもの(客観)とこと(主観)に分けられるとすると、まったく純粋にもの(事実空間)としてとらえているのだとは言えそうにない。そこには主観のこと(意味空間)による意味づけや解釈が入りこむ。主観の意味づけや解釈がまちがっていることは少なくないので、そこについてをいまいちど改めて見直してみて脱構築をしてみることはまったく益にならないことだとは言えそうにない。会についてを見なすさいに、どのようにして主観によって意味づけや解釈をするのかを絶対化せずに相対化してみる。

 東洋の陰陽の思想では、陰と陽は互いに関係によるものであり相対的なものだとされる。あまりにも純粋で完全に陰だったり陽だったりするものは、陰が陽に転じたり陽が陰に転じたりすることがおきてくるという。ことわざではすぎたるはおよばざるがごとしと言われる。

 西洋で言われる弁証法では、正が負に、負が正にといった逆のものへの転化が引きおこることがある。哲学者のテオドール・アドルノ氏とマックス・ホルクハイマー氏の啓蒙の弁証法では、啓蒙が逆の野蛮に転化することが言われている。あまり極端になりすぎずにほどほどがよいところがある。

 日本の社会の中では、まちがった形の乱暴な脱構築が時としておきやすい。これまでは何も悪く言われていなかったものが、何かのきっかけによって急に叩かれるようになる。急に悪いものだとされて悪玉化される。一か〇かの二分法で、二つの極がある中で、逆の極の方向にだし抜けに急にふり子が振れる。

 ふり子で逆の極に急に振れることには危なさがあるから、乱暴な形での脱構築にはならないようにしたい。もうちょっとていねいに見て行くようにして、プラスとマイナスの両方をともにすくい上げるようにして行く。全体を部分に切り分けるようにして、分割や細分化をして、どこの部分が悪いのかを細かくして、そこにたいしてとり組んで行く。細かく小刻みにしてやっていったほうがとり組みやすいのがあり、全体を全肯定したり全否定したりしてしまうのを避けやすい。

 何かについてを脱構築して改めて行くようにするさいにのぞましいのは、それを頭ごなしに悪玉化して、全体をまるごと駄目だとしてしまわないようにすることだろう。総体として悪いとか駄目だとしてしまうと、一面性の見かたにおちいりやすい。たいていの現実のものごとには二面性がつきまとう。プラスとマイナスが混ざり合ってなりたっている。

 日本の社会では、ていねいな形で脱構築がされることはあまりなく、ふり子の二つの極のうちで片側に振れていたものがあることをきっかけにしていっぺんに反対の極に大きく振れることがおきやすい。空気を読むことやそんたくをすることで、空気の和の支配によってそうしたことがおきやすい。同調や服従が引きおこる。社会の全体が一つの方向に向かう。一つの空気によって一色に染まる。そこには原理原則が欠けている。

 耳に勇ましく響くようなことを言うと受けがよくなるが、そのいっぽうでそこにはおだやかな抑揚のあるつり合いが欠けてしまいやすい。わかりやすいように敵か味方かを分けたほうが受けはよくなるが、単純化することによって複雑性をとり落とす。敵か味方かの遠近法(perspective)は、単純化されているものであり、現実にはそぐわないことがある。敵か味方かにはっきりときれいに二分化して線引きができないことはしばしばある。

 おだやかな抑揚のあるつり合いをとるのは抑制をかけることだが、そんなものをとるのはわずらわしいとかめんどうくさいとか邪魔くさいとすることで、勇ましいことを言うようになる。一面性の見かたにおちいりがちになるから、そこについてをいまいちどいったん立ち止まるようにして、二面性によって見るようにして、プラスとマイナスの両方をともにすくい上げるようにできたらのぞましい。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』斎藤慶典(よしみち) 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ)

日本の政権と日本学術会議とを、なに型(what)となぜ型(why)によって見てみたい―何なのかとなぜなのか

 日本学術会議をなくせ。会を廃止せよ。新聞の広告にそうした意見広告がのっていたという。会は中国の共産党と関わっていて、日本の国のためになっていないもので、よくないものだからなくしたほうがよい。ついでに日本のいまの憲法も変えたほうがよい。

 新聞の意見広告の中で言われているように、日本学術会議は中国と関わっているものであり、日本の国のためになっていないようなよくないものだからなくしたほうがよいのだろうか。それについてをなに型(what)となぜ型(why)で見てみたい。

 なに型やなぜ型で見たさいに気をつけなければならないのは、あることについてを、とにかく悪いものだから悪いとか、とにかくよいものだからよいとしてしまうことだ。あやふやなことをもとにして、不たしかなことにもとづいて、とにかくそういうものなのだからそういうものなのだと見なす。そうしてしまうと根拠と結論が循環する循環論法におちいってしまう。

 循環論法とは、たとえば、ある国は悪い(A)、だからある国は悪い(A)、といったことだ。おなじ A から A を導いてしまっている。恒真命題(同語反復)だ。論点の先取ともされる。

 日本学術会議が悪いのだとするのには、なに型において、とにかく会が悪いのだから悪いのだといった循環論法におちいっているところがある。そしてそのいっぽうで日本の与党である自由民主党による政権のことをとにかくよいのだからよいのだとしてしまっている。

 なぜ型で見てみられるとすると、日本学術会議が中国の共産党と関わりがあるかどうかで、なぜ中国のことを悪いものだと見なすのだろうか。そこで中国が悪いものだと見なされるさいに、その悪さとはいったいどういったものなのだろうか。

 中国の政治の権力の悪さとしてあげられるのは、中国の政治の権力による批判者や反対勢力(opposition)の排除だ。中国の政治の権力にたてついてあらがい声を上げる批判者や反対勢力のことを悪玉化して社会の中にいなくさせる。批判者や反対勢力すなわち悪だとする。

 そのほかには中国では西洋の近代の普遍の個人主義にもとづく立憲主義(憲法主義)や自由主義(liberalism)をとっていない。中国の政治の権力が独裁化することにたいする歯止めがかかりづらい。抑制と均衡(checks and balances)が働いていない。

 たとえ立憲主義自由主義が制度としてとられていたとしてもそれはいざとなったらその時の政治の権力によっていともたやすく壊されてしまいやすい。その具体の実例がいまの日本の国の政治やアメリカの国の政治において見られる。立憲主義自由主義はたとえ制度としてあったとしてもそれだけでは十分条件とは言えずもろいものだから壊されてしまいやすい。

 なに型となぜ型で見てみられるとすると、悪いものとしての中国の政治の権力とは何かについては、批判者や反対勢力の排除や、立憲主義自由主義をとらないで独裁になっていることがあげられる。そこから反中国がいえるとすると、批判者や反対勢力のことを包摂することや、立憲主義自由主義をよしとすることだ。

 中国すなわち悪いものだとしてしまうと、なに型において、中国は何かについてを固定化してしまう。そこをゆるめるようにして、ていどによって見てみられる。ていどによって見てみられるとすると、中国の政治の権力がやっていることは悪そのもので、日本の国は善そのものとは言えそうにない。

 日本の国においても中国のように批判者や反対勢力が排除されているし、立憲主義自由主義が壊されていて独裁への動きがおきている。日本の国が中国のあり方に近づいていっているとは言えても、遠ざかっているとは言えないだろう。日本と中国とは対照と言えるほどには大きなちがいはなく、悪さの点では共通点をもつ。中国のほうがよりひどいのはあるにしても、あくまでもていどのちがいでしかない。

 日本のいまの政権と日本学術会議とを対比して見られるとすると、どちらか悪い意味での中国の政治の権力により近いのかといえば、それは日本学術会議ではなくて日本のいまの政権のほうがそれに近い。日本のいまの政権は、意図していようともしていなかろうとも、やっていることや言っていることが、悪い意味での中国のあり方と近くなってしまっている。

 なに型として、日本の国は善で、日本学術会議は悪で、中国は悪だ、としてしまう。あたかも時代劇のようにして、いっぽうを善玉化してもういっぽうを悪玉化する。わかりやすい対照の分け方だ。それは必ずしもふさわしい見かたとは言えそうにない。そう見なしてしまうとなに型で見ることが固定化しすぎてしまう。それをゆるめるようにして、国民国家が悪くなるさいには、どういうさいにどういうふうに悪くなるのかを見て行ける。そのさいに人為の国境を超えることができて、必ずしも人為の国境の線の内と外のちがいにはしばられない。

 なに型で見すぎることをゆるめるようにしたさいに、人為の国境の線を超えられるのは、国民国家がひどい失敗をしでかすのにはいくつかの種類にしぼられるためだ。むぼうな戦争(軍事力の暴走)や、権力の独裁(権力の一強化)や、人権の侵害がそれにあたる。この三つはたとえ中国であろうとも日本であろうともアメリカであろうともどこでもおきることだから、人為の国境の線の内と外には必ずしもしばられることはない。

 何がいることなのかといえば、中国にたいして警戒心をもつことはあってもよいだろうけど、それをするのであれば、それだけではなくて日本の政権にも警戒心をもつべきだし、アメリカにもまたそれをもつべきだろう。警中や警日や警米をして行く。どれもが似たような悪いところをもつ。どれもが暴力を独占する国民国家(国家の公)だからだ。国家の公の肥大化には待ったをかけるようにして、個人の私ができるかぎり押しつぶされないようにしたい。

 お互いに対立し合うものは水準や次元が同じくらいであり、それによってぶつかり合うことがおきる。中国とアメリカの国どうしのぶつかり合いにそれが見てとれる。おたがいに水準や次元をまったく異にしていたらぶつかり合いはおきづらい。おたがいにぶつかり合いがおきているのだとすれば、いっぽうがものすごくとんでもなく比べものにならないくらい抜きん出て水準や次元が高くて、もういっぽうがものすごく水準や次元が低いとは見なしづらい。ぶつかり合う(ぶつかり合いすぎる)ことをやわらげて、うまく折り合いをつけることがあったらよい。

 参照文献 『「Why型思考」が仕事を変える 鋭いアウトプットを出せる人の「頭の使い方」』細谷功(ほそやいさお) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『公私 一語の辞典』溝口雄三憲法という希望』木村草太(そうた) 『子どものための哲学対話』永井均(ひとし)

短期と長期の枠組みのちがい―短期の利益を追うべきか、長期の利益を追うべきか

 長期の利益を追うのか、それとも短期の利益を追うのか。その二つのうちのどちらをやるようにするべきだろうか。

 長期の利益を追うようにすれば法の決まりを守りやすい。自由主義(liberalism)を保ちやすい。法の決まりは短い期間ではなくて長い期間においてはじめて利益が見こめるものだとされる。

 自動車を運転するさいには運転手はできるだけ遠くに視点を置いたほうが安定して走行しやすい。近くに視点を置いてしまうとふらふらとした不安定な走行になりやすい。自動車の運転で運転手が遠くに視点を置くのは長期の視点で、近くに視点を置くのは短期の視点になぞらえられるかもしれない。

 あした世界が終わるとすると、そこで法の決まりを守る人はあまりいないだろう。あした世界が終わるのだとすれば、そのさいに法の決まりを守ってもあまり意味がない。あした世界が終わるのだとすれば長期の利益がなりたたなくなるから、短期の利益しかなりたたなくなり、多くの人が短期の利益を追うようになるだろう。秩序がなりたたなくなって混沌が生じてくる。秩序よりも前に混沌がより根源としてあるとも言える。

 これから先に確実にいまのあり方が引きつづくとは言い切れないのがあるので、今日にでもまたあしたにでも何か大きな負のできごとがおきないとは限らない。それによって前とあととのあいだに断絶や切断が引きおこる。長期の視点をとろうにも、そこには不確実性がいやおうなしに避けがたくつきまとう。まったくもってこの先は安泰そのものだとは言い切れそうにはないので、先行きにたいするばく然とした不安が引きおこる。まったくもって安定した確かな揺るぎのない大きな物語はとりづらい。先行きがすっきりときれいに透明に見通せるとは言い切れず、不透明さがある。

 短期の利益を追うようにすると、いっけんするとすぐに利益が得られるような気がするが、そこには危うさがあることがいなめない。法の決まりがないがしろになって破られやすい。自由主義が損なわれてしまいやすい。科学のゆとりを持つことができづらいのがある。ついあせりがおきる。失敗がおきるときにはあせっているときが多い。この具体の実例はさいきんでは日本の国の政治やアメリカの国の政治などに見られる。

 いっけんすると短期の利益を追ったほうがすぐに利益が得られそうな気がするが、ほんとうに利益が得られるとは言い切れず、かえって損や害がおきることがある。利益ではなくて逆に損や害がおきてしまうことについてを気をつけて気をつけすぎることはないだろう。

 おたがいの持っている枠組みがずれているさいに、短期の利益による枠組みによるのと長期の利益による枠組みによるのとのちがいがある。この二つのそれぞれの枠組みがずれているさいに、お互いに見ているところがちがっていて、うまく折り合わなくなる。そこについてをうまく折り合いをつけるようにして、短期の利益だけによってつっ走っていってしまわないようにしたい。

 短期の利益の枠組みだけによってつっ走っていって大きな失敗をしたことは、歴史をふり返ってみるとたくさんある。戦前や戦時中の日本の国は、いろいろなちがいのある意見や声をくみ入れることをせずに、ただたんに日本の国は正しいとすることによって、短期の利益をとろうとしてつっ走っていって大きな失敗をおかした。ただ一つだけの日本の国をよしとする意見や声だけを許した。国家の公が肥大化して、個人の私を押しつぶし、その時点の国家の短期の利益をすぐに手に入れようとしてむぼうな行動を国家が行なった。

 日本の国はよくないとかだめだとするのは、たとえ短期の利益にはならなくても、長期の利益になることはある。ことわざでは良薬は口に苦しとされる。日本の国をよしとするのは、たとえ短期の利益にはなるのだとしても、長期の利益にはならないことがある。ただたんに日本の国をよしとするだけで、日本の国のことをたとえ少しであったとしても悪く言ってはならないとするのは、もっぱらその時点での短期の日本の国の利益を追うことであり、長期の日本の国の利益にはかないづらい。いまの時点ですぐに短期に日本の国のことをよしとされたりほめられたりしたいといったことだ。

 作物を育てるさいには、できるだけ早く育ってすぐに収穫できるようなやり方があるが、そうではなくてじっくりと時間をかけて育てて行くやり方もまたあるものだろう。いまの日本の国では、できるだけ早く育ててすぐに収穫を得ようとするところがあり、じっくりと時間をかけて育てて行くようなゆとりが欠けているところがある。

 ものを温めるさいには、すぐに温めようとしても表面の浅いところしか温まりづらいことがあり、じっくりと時間をかけることによって表面だけではなくて芯の深いところから温まるようになることがある。すぐに温まりはするが表面の浅いところだけしか温まらないことがもてはやされていて、じっくりと時間をかけることはいるが芯から深く温まるようなことはうとんじられがちなのがある。

 いろいろな課題が山積している課題先進国なのが日本の国なのだから、それらを何とか片づけるためにはゆうちょうなことを言ってはいられないのがあるから、のんびりとやれるようなゆとりがないのがあり、速度の速さ(早さ)が求められるのは一方においてはたしかだ。のんびりとだらだらとやっていては駄目であり、きびきびとした速度の速さ(早さ)が危機管理においてはいることはたしかだ。時間は有限であり、貴重な資源(resource)の一つであって、ことわざでは時は金なりという。いたずらに時間を失ってしまってはよいことではない。

 速度の速さ(早さ)がいるだけではなくてもう一方においてはできるだけ長期の視点をもつことが欠かせない。短期の利益の枠組みと長期の利益の枠組みのどちらかだけにかたよりすぎず、どちらかだけを絶対化せずに、どちらも相対化しながらやって行く。とりわけ短期の利益の視点にかたよりすぎることには何らかのしっかりとした歯止めがあったほうがよい。その歯止めが欠けていると、速度は速くて(早くて)効率性はきわめて高いが、適正さがいちじるしくなくなることがある。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『文学の中の法』長尾龍一 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『創造力をみがくヒント』伊藤進

覚悟をもった政治家は与党である自由民主党の中にはあまり見あたりそうにない―とりわけ政治の権力の中心に近いほどそれがとぼしいように見える

 公文書の管理は大切だと言っていたところを、自分の本の中からその部分をとり除く。与党である自由民主党菅義偉首相がいぜんに自分で出した本についてそうしたことをしたという。それで、いぜんにはあった公文書の管理についてのところをなくした本を新しく出し直すという。

 菅首相が新しく本を出し直すいきさつにおいてどのようなことが言えるだろうか。そこには日本の政治において原理原則が欠けていることがうかがえる。公文書の管理は政治において中心をなすといってよいくらいの原理原則にあたるが、それをいざ政治の権力の地位についたらいともたやすく軽んじてしまう。いぜんに言っていたことをいともかんたんにひっくり返す。一貫性が見られない。

 政治家の覚悟との題が菅首相が新しく出し直す本にはつけられているようだが、菅首相には公文書の管理についての覚悟がぜんぜん足りていないのではないだろうか。それについて他から開かれた形で批判を受ける覚悟ができていない。

 公文書の管理は政治の中心をなす原理原則といってよいくらいに大切なものなのだから、それについて菅首相がいぜんに出した自分の本の中で触れているのはその重要性を菅首相が自分で認識していたことをあらわす。重要なところなのだから、それについて触れていたところを、新しく本を出し直すさいになくしてしまうのは理解ができづらい。

 まんじゅうでいえるとすると、まんじゅうをつくってから、中のあんこをわざわざとり除いてしまうようなものではないだろうか。せっかく中にあんこが入っているのにも関わらずそれをとり除いてしまう。まんじゅうをつくってから、あとから中にあんこを入れ忘れたことに気がついて、あとからあんこを入れ直すのならまだわからないではない。そういえば中のあんこをついついうっかりしていて入れ忘れていて、それをあとになってから気がついて入れ直すのならまだわからないことではない。あとから肝心なところをつけ足すのならまだわからないではないが、その逆にあとから肝心なところをとり除くのでは台なしだ。

 日本の政治では公文書の管理がないがしろにされやすい。それがよく見てとれるのが与党である自民党のなしている政治のやり方である。ほんらいであれば政治において国民の自己実現と自己統治がもっとも重んじられることがいり、そのために公文書がきちんと管理されていることがいる。

 公文書の管理はあくまでも国民のためのものだが、そうではなくてたんなる国民の代理や代表にすぎない政治家や役人のためのものになってしまっている。日本の政治では日本の国がつくられた明治の時代から官である役人が政治の主となってきたために、国民が主とはなりづらい。官である役人や政治家の都合しだいによっていかようにも情報が都合よく統制されてしまう。国民のことは二の次である。

 情報の統制とは日本の戦前や戦時中に大本営発表が行なわれたのがそれにあたり、政治の権力による情報の操作や情報の秘匿(隠ぺい)がある。いまの与党である自民党は情報の統制をいろいろな形で裏でしていると見られる。それによって政治の権力を保つ手段にしていて、逆にいえば、情報の統制をしていないと政治の権力を保ちづらい。開かれていない閉じたあり方だ。

 政治の権力が情報の統制をするなかで、報道機関などの情報をつねに監視して、にらみをきかせて圧をかけている。開かれた自由な報道の流通がさまたげられている。日本の社会が空気や和に弱く、服従や同調がいともたやすくおきやすいことが、政治の権力によって悪用されている。

 政治の権力にすり寄って権力の顔色をうかがい空気を読むたいこ持ちや権力の奴隷となる人材には日本の社会はこと欠かない。政治の権力からの呼びかけにすなおに従う自発の服従がおきやすい。目だちづらいところにいるのならともかくとして、目だつところにいると(目をつけられやすいことから)とりわけ難しいことではあるものの、たいこ持ちや権力の奴隷にはなるまいとする辺境人(marginal man)の覚悟をもつ人はそれほど多くはない。中心や中央への志向が強い。

 政治家の覚悟と題されているのが菅首相の本のようだが、ほんとうにその覚悟があるのかがいぶかしいものである。きびしいことを言わせてもらえるとすると、政治家(statesman)の覚悟ではなくて、短期の利益を追うものである政治屋の覚悟や、大衆迎合主義者(ポピュリスト populist)の覚悟としたほうがふさわしいかもしれない。政治の権力を保つことが自己目的化しているのがあり、保身の覚悟ならじっさいに目につく。数の力によってものごとをおし進めようとするために、質がとり落とされて、政治の権力の中心やそれに近い政治家の理性の退廃による理性の道具化がいちじるしい。

 参照文献 『国家と秘密 隠される公文書』久保亨(とおる) 瀬畑源(せばたはじめ) 『公文書問題 日本の「闇」の核心』瀬畑源 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『情報政治学講義』高瀬淳一

与党である自由民主党による行政の改革における隠れたさまざまな聖域や禁忌の中の一つに元号の使用がある

 行政の改革に聖域や禁忌はない。行政の改革をになう政権の大臣はそう言っていた。もしも聖域や禁忌がないのであれば、日本の政治や社会の中で元号を使うことをやめたらどうだろう。元号ではなくて西暦を使うことを標準にするようにする。

 日本の伝統だからとして元号を使うことにいまの与党である自由民主党の政権は力を入れているが、これだと元号と西暦の二重基準になり、合理性や効率性があるとは言えそうにない。元号は日本の国内だけでしか通じづらいものだ。元号だけが使ってあると西暦が知りたいときにそれがいつなのかがわからない。

 元号を使うのをやめて西暦に標準化したほうがよいと言うと、日本の伝統をよしとする右派や保守の人たちからきびしい目で見られてしまうかもしれないが、元号改元の仕組みは日本で独自につくられたものではないために、必ずしも日本の伝統とは言えそうにない。

 日本の伝統と言われているものの中には、古くからのものではなくて比較的に新しいものが少なくなく、ほんとうに伝統と言えるかが定かではなく不たしかなものが色々にある。伝統とされているものだからといってそれに一義的に価値があるかは定かではない。

 日本の伝統とされているからといってそれがほんとうに日本の伝統だとはかぎらないのがあるから、それを盲目的にありがたがることは必ずしもいらないことだろう。もっとつっこんで言えば、伝統についてだけではなくて、日本の国だからといってそれだけで価値があるとは言えず、日本の国(または日本人)とは何かは完全に自明なことだとは言えないのがある。

 日本の国や日本人とは何かが完全に自明だとは言い切れそうにないのは、人それぞれによってそれらについて思い浮かべることがちがってくるからである。人それぞれで思い浮かべることがばらばらで、必ずしも共通点がなく、相違点がいろいろにあることがある。

 人それぞれで思い浮かべることにちがいがおきてくることになるのは日本の国や日本人の記号が抽象的なものであるためだ。抽象性が高くて触知可能(tangible)ではないので、これが日本の国そのものだとか、これが日本人そのものだとは具体としてさし示しづらく、あくまでも役割化や象徴化されたものでしかない。ハトは平和の象徴だといったような。国にかかわる象徴としては感情の象徴(ミランダ miranda)や知の象徴(クレデンダ credenda)が用いられる。相対的な抽象性のちがいではあるが、一つの具体の地域に根ざした郷土や郷土人から大きく一線をこえて飛躍したものが日本の国や日本人だ。

 元号改元の仕組みはもともと中国にあったものだとされる。中国の儒教で革命に似せたことを人為で引きおこすものだった。ほんとうに革命がおきてしまうとまずいので、人為で革命に似たことを定期的に引きおこす。それが定めた元号を改める改元だという。中国における政治の権力をになう体制は保守であり、革命をきらうがために、ほんとうに革命がおきてしまってはまずいことから、それに似せたことを人為で行なうようにした。

 日本では明治の時代になって中国からとり入れた元号改元の仕組みをとることにして、天皇の一世(一代)が一つの元号とされた。天皇になってから亡くなるまで天皇の位に属しつづけることが決められて、天皇にだけ主権があること(天皇主権)が憲法によって決められた。元号改元の仕組みはもともとは中国の儒教朱子学から来ているものだし、日本でそれをとり入れたのは明治の時代になってからだから、日本が独自につくった古くからの伝統だとは言えそうにない。

 自民党がやっていることとは逆に、元号ではなくて西暦を使うことに標準化したほうが合理的になることが見こめる。あくまでも合理性をよしとするのならそうしたほうがよいのがあり、それをすすめたい。

 文学者の丸谷才一氏は西暦の二〇〇〇年のときに元号改元して元号を二千と定める案をどこかで言っていた。元号が二千となっていれば、二千元年、二千一年、と西暦と合うようになるので二重基準にならずに合理的だ。

 自民党はたとえ非合理や非効率であったとしても日本の伝統だからとして元号を使うことに力を入れて行くことを変えないだろう。そこは自民党の中にある隠れたさまざまな聖域や禁忌の一つになっている。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『新版 主権者はきみだ 憲法のわかる五〇話』森英樹 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『記号論』吉田夏彦 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき)

国の財政と、理性と反省―死の恐怖がないと理性や反省によることはなかなかできづらい

 国の財政についてを自動車になぞらえられるとすればどういったことが言えるだろうか。さまざまなことが言えるとして、そこで言えるかもしれないことは、加速が強まりやすいが減速や抑制がききづらいことだ。

 国の財政を自動車になぞらえたさいの加速とは国の借金をどんどん積み重ねて行くことであり、減速とは借金をしないことだ。減速や抑制をして借金を減らしていってなくして行く。

 加速をせよとは言われるが、減速をせよとは言われづらい。ここに国の財政がおちいりやすい問題があるのだと見られる。加速にたいしての動機づけや誘因(incentive)や誘惑ははたらきやすいが、減速にたいしての動機づけはもちづらい。

 哲学者のトマス・ホッブズ氏は、暴力などによる死の恐怖によってはじめて人間は理性による反省ができるようになるとしている。死の恐怖にまで行きつかないことには人間はなかなか理性や反省によることができづらい。目が覚めづらく、まどろみにおちいりつづけることになる。

 国においての死の恐怖とは戦争になって敗戦することがあげられる。戦争で敗戦することによってやっと国家主義(nationalism)による酔いから一時的にせよ覚められて、その時点において理性や反省がなりたつ。その理性や反省は持続性がないために、たやすく忘れられてしまいやすい。ことわざでいうのど元すぎれば熱さ忘れるとなり、国家主義の酔いがすぐに大きく出てきてしまう。

 国家主義の酔いは共同幻想(想像の共同体)によるもので、集団になると(個人であるときよりも)しばしば人は狂いやすい。もともと人は多かれ少なかれ狂っている(ホモ・デメンス homo demens)のがあり、それが増幅されることがある。

 人がもつ狂いをトマス・ホッブズ氏は自己欺まんの自尊心(vain glory)や虚栄心としていて、人は放っておくと自然状態(戦争状態 natural state)においてその虚栄心に大きくかり立てられて互いが互いにたいしておおかみになり、終わりなき殺し合いになる。万人の万人にたいする闘争が引きつづく。お互いが自己保存(自己愛)を第一にすることによる。それをのりこえるために社会状態(civil state)をなすことがいるとされる。人どうしがおたがいに敵対し合い殺し合うことの弁証法による正と反と合の止揚(アウフヘーベン aufheben)が社会状態だ。性悪説による見なし方だ。

 国の財政において死の恐怖は、財政の破綻や超物価高(hyperinflation)がそれにあたるとすると、それがおきたときにはじめて理性や反省によることができることになる。それがおきないうちはなかなか理性や反省によることができづらく、加速が強まりやすく、減速ができづらい。

 国が戦争で敗戦したときや国の財政が破綻したときに、そのすぐあとのころに法の決まりがつくられた。それが憲法や財政法だろう。戦争で敗戦したときや財政が破綻したときは、死の恐怖が生々しくおきているから、一時的に理性や反省によることができやすいために、それが生かされる形で法の決まりがつくられて、死の恐怖が内容に盛りこまれる。独立性がとられている形での中央銀行の役割にもそれが見られる。いまの日本の中央銀行は政府によって独立性が骨抜きにされているようだが。

 財政の破綻や超物価高はおきるはずはないとするのは、神風の神話のようなものなのではないだろうか。神風が吹くのだとすれば財政の破綻や超物価高はおきないだろうが、まちがいなく神風が吹くとは言い切れそうにない。神風が吹かない可能性もまたあるだろう。

 国の財政をどのように見なすのかについてはいろいろな見なし方があるから、楽観論から悲観論まであり、どれが正しいのかは定かとは言えそうにない。国が借金をすることはいけないことだとは決めつけてはいけないが、借金をすることにたいする動機づけは強まりやすいが、それをしないで借金を返してなくして行くことへの動機づけはあまりもちづらい。それは死の恐怖がないかぎり、なかなか理性や反省によることができづらいことと関わっているのだと見られる。

 経済がうまく行っているときには利益をばらまく利益分配政治ができるが、うまく行っていないときには不利益をどのように分配するのかの不利益分配政治となる。利益分配政治ではなくて不利益分配政治をすることが避けられなくなっているのは、国の財政の有限性による制約条件があるからだ。それが有限ではなくて無限だとして制約条件がまったくないとするのは理想論としては言えるかもしれないが現実論からするとうなずきづらい。

 制約条件をとり外してしまうのは、たとえば人間が自力で空を飛ぼうとするために努力をすることがあげられる。制約条件をまったく抜きにすることによって、人間が自力で空を飛ぼうと努力をすることが目ざされる。そこに現実の制約条件をくみ入れるようにすれば、自力で空を飛ぼうとする努力には意味がなくなる。制約条件の内ではなくてその外で努力するのは、現実としてかないづらい努力だから、合理性が無いか低い。

 有限性による制約条件がある中でどのような負担と給付を行なって行って、借金をどのように減らしてなくして行くのかを探っていったほうが現実論にはかないやすい。自動車でいうと、おろそかにされがちな減速や抑制のほうを重く見ていったほうが理性の反省ができやすいが、それよりも加速による理想論をとるほうが耳にはここちよく響くのがある。理想論が絶対にまちがっているとは言い切れないが、そこでは理性の反省が行なわれづらい欠点がある。

 参照文献 『赤字財政の罠 経済再発展への構造改革』水谷研治(けんじ) 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『現代思想を読む事典』今村仁司

法の決まりが先か道徳が先か―国家(の権力)つまり道徳となる危なさ

 法の決まりが先か、道徳が先か。憲法学者の木村草太(そうた)氏は、学校の教育で、まず法の決まりについてを教えることをすすめていた。まずはじめに法の決まりについてをきちんと教えて、道徳はそのあとでもよい。道徳がいちばん先なのではない。

 政権が日本学術会議の人事についてやったことを、人それぞれによっていろいろに見られるのはあるだろうが、法が先か道徳が先かで見られるのがある。ここでないがしろになってしまっているのは、法の決まり(慣習)であり、それとはちがう国家つまり道徳がとられてしまっている。

 法の決まりは小さい正しさに当てはまる。小さいとは、最低限(最低線)であるのをさす。自由主義における他者危害原則などの核となる守るべき最低限の具体の義務だ。人が治める人(権力者)つまり法の人治主義ではないのが法治主義や法の支配(rule of law)であり、個人の基本の権利を主とした決められた形式が守られなければならない。

 法の決まりの形式とはいっても、悪法もまたありえるから、悪法であったとしても守らなければならないのかがある。悪法であったら守らないで破ったほうがよいのではないかの点については難しいもので、色々な見かたがあるものだろう。これは形式か実質(のよし悪し)かのちがいだ。

 法の決まりのよし悪しはあくまでも価値の判断で、それは客観には決めがたいとするのが価値相対主義の実定法主義(法実証主義)とされ、価値はとりあえずかっこに入れたうえで、(よし悪しは抜きにしたかぎりで)事実として法があると見なすのだとされる。価値と事実を切り分ける。方法二元論だ。それとはちがいよいか悪いかの価値を決められるものだとしてとり上げて行くのは自然法による。自然法では悪法はあることになるという。

 約束と愛でなぞらえられるとすると、(価値は抜きにして)たとえ愛が冷めていたとしてもとりあえず事実としての約束をこれからも引きつづいて守るのと、愛が冷めたのであればそれをいちばん重く見て事実としての約束にはもはや価値がないから破る(または解消する)かのちがいだ。

 愛が冷めていれば人情を欠いた(ともなわない)冷たい義理になるが、それでも事実としては義理は義理だとする。それとはちがい人情を欠いた冷たい義理はもはや温かい義理とは言えず、あくまでも人情のある温かい義理が大事なのだから冷たい義理は破って解消するのかだ。

 近代の法治主義や法の支配においては、その核となるところに個人主義における個人の基本の権利があるとされる。個人のことを重んじないようなおかしなあり方でなければ、個人の基本の権利の核から出発して色々な法の決まりがつくられることになり、そういうあり方になっていればそれほどまちがった法の決まり(悪法)がつくられることは基本としてあまりないものだろう。原則論としてはそう言えるのがあるが、何ごとにも例外はつきものだから、例外論によって例外をくみ入れないとならないのはあるが。

 小さい正しさと大きい正しさがある中で、小さい正しさの法の決まりをないがしろにして、国家つまり道徳として大きい正しさを持ち出す。与党である自由民主党の政権は、自分たちがやったことについてを、大きい正しさによって正当化しようとしている。人治主義のようになっている。

 小さい正しさが守れていないのに、大きい正しさを持ち出すことによって政権は自分たちのやっていることを正しいことだとしようとしている。いちばん肝心なことは、大きい正しさにあるのではなくて、小さい正しさが守れているかどうかにある。

 巨視と微視で見られるとすると、巨視よりもまず微視で見ることが必要だ。巨視で見てしまうと、国家つまり道徳となって、国家が道徳を体現しているとなる。そこに危なさがあることはいなめない。それをしないようにして、微視で見て行く。

 たいてい国家の権力が悪いことをやるときには、巨視がとられることが多い。巨視をとらないと国家の権力が自分たちがやることや言うことをよしとすることができない。そこでないがしろになるのは微視である。

 国家の権力に悪いことをさせないようにするためには、巨視ではなくて微視によって見て行く。たいてい国家の権力が悪いことをするさいには、国家つまり道徳だとして、巨視をとり、微視をおろそかにする。それに乗っかってしまうと、国家の権力が悪いことをすることを止めづらい。

 国家の権力がおろそかにしがちな微視で見るようにして、法の決まりをきちんと守っているかどうかを重要なものと見なす。もしも国家の権力がそれを守っていないのであれば、それを大したことではないとして軽く見なすのではなくて、大きいことだと見なすようにして、きびしく批判をして行く。

 森と木(全体と部分)でいうと、国家の権力が悪いことをするさいには、たいていは大きな森を語りがちだ。大きな森の充実を言う。そこでないがしろにされるのは小さい木であり、小さい木に当たる法の決まりをきちんと守っているのかどうかを見て行ける。

 小さい木にまずいところがあるのなら、大きい森がおかしくなっているのだと見て行ける。大きな森が虚偽意識になっているのだとうたがうことがなりたつ。森の全体をいっきょにいっぺんにとらえることはできづらく、大ざっぱになりがちだ。そのさいに森のおかしさを反映するのは部分である小さい木からなのがあり、そこに着目する手がある。木から森へと見るのはやや飛躍があるかもしれないが、そのように見て行くことがあったほうが、国家の権力が悪いことをやることを止めるのに少しは役だつ。

 参照文献 『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』木村草太 新城(しんじょう)カズマ 『現代倫理学入門』加藤尚武 『論理的な思考法を身につける本 議論に負けない、騙されない!』伊藤芳朗(よしろう) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房法哲学入門』長尾龍一 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん)

元首相の死を弔うことの求めについてを、IMV 分析で見てみたい

 中曽根康弘元首相に弔いの意を形として示す。それを与党である自由民主党の政権がさまざまな司法や教育の機関に上から強いている。このことについて、どのように見なすことができるだろうか。それについてを学者の西成活裕(にしなりかつひろ)氏による IMV 分析によって見てみたい。それによって見えてくるのは、政権が国家主義(nationalism)によって社会の中を分断しようとする思わくだ。

 自民党菅義偉首相による政権が、ただたんに中曽根元首相に弔いの意を形として示すことをさまざまな司法や教育の機関に求めているだけだとは言えそうにない。ただ純粋にそれを求めているのではなく、むしろそれは二次的なものにすぎず、政権に服従するのかそれとも抵抗するのかを司法や教育の機関にたいして試している。

 政権は社会の中を分断する思わくをもつ。おもて向きには弔いの意を形として示すことを求めているが、これは伝達情報(message)であり、政権の意図(intention)はまた別なところにある。その意図を読みとるのだとすると、そこには国家主義が見てとれる。そうした見解(view)をもてる。

 政権は国家主義によって社会の中を分断しようとしているので、政権に服従する者はとり立てて、逆らう者はわきに追いやって行く。そうしたあつかいをしようとしている。これは戦前や戦時中に見られたものである。戦争をうながす行動である。日本の国家に服従してよしとする者は厚くもてなして、逆らう者にはきびしくあつかう。そのあいだに分断線を引く。国家をものさしにして賞罰(サンクション sanction)に差をつける。

 もしも政権が弔いの意を形として示すことを司法や教育の機関に求めるのだとすれば、それは全か無かがふさわしいのではないだろうか。すべての司法や教育の機関がそれを示すか、それともどこもそれをやらないかである。客観の必要性と正当性があるのならすべてがやり、それがないのならすべてがやらない。そういうことであれば社会の中に分断がおきづらい。もともと日本には西洋のような主体によるはっきりとした意志にもとづく選択の文化があまりない。それよりもどちらかといえば空気や和の文化だ。

 全か無かではなくて、あくまでも自由な判断に任せる形をとり判断を迫っているところに政権の悪質さがある。自由な判断に任せるのだとその判断はうわべでは自主的なものに見えるが、じっさいは政権によって動かされてしまっている。

 こちらの判断を選択したとしてもあちらの判断を選択したとしても、いずれにしてもまずさがおきてくる。学者のグレゴリー・ベイトソン氏が言うところの二重拘束(ダブル・バインド double bind)が引きおこる。それはなぜなのかといえば政権の言っていることややっていることがおかしいからだ。そこにもとがある。そうであるのにもかかわらず、政権はあくまでも悪くはなくて、おのおので勝手に自由に判断をした(とうわべでは見える)司法や教育の機関のせいにしようとしている。

 司法や教育の機関がいずれの選択をしても二重拘束のまずさがおきてきてしまうのは、修辞学でいわれる先決問題要求を政権が果たしていないことがもとだ。まず先決に片づけることがいる問題が放ったらかしになっていて、政権が説明や立証や挙証の責任を質と量ともに十分に果たそうとしていないために、ほかのところに(ほんとうなら負うことがいらない無駄な)負担が一方的に押しつけられる形になっている。自由主義(liberalism)が損なわれていて、国家主義が強まっているために、必要より以上のよけいな負担が国家から一方的に押しつけられることになる。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫

元首相の死に国立大学が義務として弔いの意を形として示すことは必要なことなのかどうか

 亡くなった中曽根康弘元首相に弔いの意を形として示す。与党である自由民主党の政権は、国立大学にたいしてそれを強いているのだという。中曽根氏に弔いの意を示すことを国立大学に強いるのはふさわしいことなのだろうか。

 大学は学校であり、国家のイデオロギー装置の一つだが、なぜ中曽根氏に弔いの意を示すことを国立大学だけに求めるのかが定かとは言えそうにない。是非については置いておけるとすると、国立大学に求めるのであれば、税金が投入されているあらゆる学校にそれを求めるのであってもおかしくはない。

 近代国家の中性国家の原則からすると、国家はできるだけ個人の内面に介入しないほうがよい。国家は個人の内面が関わるようなことにたいして介入することをできるかぎりつつしむのがふさわしいことだろう。日本の国家は、明治の時代に国家がつくられはじめたころから個人の内面に介入してきやすい。すきがありさえすれば日本の国家は個人の内面に何かと介入しようとしてくるから、うかうかと油断やすきを持てない。抜け目がない。

 そもそも、亡くなられた中曽根康弘元首相とはいったいどういった人物にあたるのだと見なせるのだろうか。中曽根氏は首相になったのだとはいえ一人の政治家だったのにすぎない。政治家とは国民の代理または代表にすぎない。そこで気をつけなければならないのは、政治家は国民とぴったりと一致しているとは言えないことだ。そこには無視することができないずれがある。

 憲法でとられている原則である国民主権主義から見られるとすると、国民の一般をよしとするのならともかくとして、国民の代理や代表のことをよしとするのはいかがなものだろうか。国民の代理や代表については、よしとするのではなくて、むしろきびしく批判として見て行くべきである。政治家については批判をもってして見て行くことがふさわしい。

 政治家にたいして批判の目を向けずに甘やかすと、かえって政治家のためにならないかもしれない。甘く見なすよりもきびしく見なしたほうが政治家のためになるとすると、きびしく見なしつつ、関心を向けることがよいだろう。それでなくてももともと政治家は自分が票を得ることに主の関心をもつものだし、量に重きを置きがちだ。それによって質をとり落とすことになり、たやすく理性が退廃して道具化しやすい。政治家ではなくて短期の利益に走る政治屋に転落しやすい。

 たんなる国民の代理や代表であるのにすぎないのにもかかわらず、その代理や代表のことをよしとするようなことをするのは、その正当性がいったいどこにあるのかがよくわからない。原理原則からいって正当性がいったいどこにあるのかがわからないようなことを自民党の政権はやろうとしているように映る。

 民主主義は民が主となるものであり、政治家が主となるものだとは言えそうにない。政治家のことを主とするのはお上を主とすることであり、お上をあがめたてまつる権威主義の意識のあらわれだ。民主主義によるのであれば政治家ではなくて民つまり主権者のことをよしとしなければならない。

 もしも自民党の政権が言っていることややっていることに正当性があるとするのであれば、どのような原理原則に照らしてそれがあるのかを示してもらいたい。ただ暗黙としてこうせよとするのではなく、こういうことだから(why so)こうするのだ(so what)といった形で明示化するとわかりやすい。

 自民党の政権が言っていることややっていることには、こういうことだからの部分が欠けていることが多い。それを示すことをしないことが多く手を抜いている。手を抜いていることが多いために議論の水準が低いかまたはそもそも議論にすらなっていないことが目だつ。それのみならず、改めてみると言っていることややっていることの確からしさが足りていないことが多い。それをさも正しいことであるかのようによそおっていることが多く、ごまかしの虚偽意識になっている。

 修辞学の議論の型(topos、topica)の比較からの議論では、なおさら論証と言われるものがある。何々であればなおさら(より強い理由によって a fortiori)何々だとするものだ。それを持ち出せるとすると、国民の代理や代表をよしとするのであれば、なおさらのことじかに国民の一般のことをよしとするようにするべきだろう。国民の一人ひとりが亡くなったとすれば、そのことにたいして税金をかけたりあらゆる国家の機関が弔いの意を示すようにしたりするべきではないだろうか。じっさいにそれをやるのは難しいことだから、じっさいにまちがいなくそれをやったほうがよいとは言えないだろうけど。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし)