かりに獣医学部をどんどん新設するにしても、日本獣医師会の意見をまっこうから否定したり、まったく反論に耳を貸さなかったりするのは、おかしい気がする

 あきらかに、政権にたいする抵抗勢力ではないか。自由民主党菅義偉官房長官は、会見でそのように述べた。抵抗勢力と見なされたのは、日本獣医師会の人たちである。政権は獣医学部をどんどん新設することを新たに目ざし出したが、日本獣医師会はこれに釘をさしている。

 政権にとって日本獣医師会抵抗勢力にあたるようだ。この日本獣医師会は、官僚組織にも置き換えることができそうだと感じた。あくまでも素人から見たことにすぎないのだけど、おそらく日本獣医師会のほうが、専門的に活動しているだけに、獣医の分野の実態をより詳しくとらえられていそうだ。これは、政治家よりも官僚のほうが、何かの問題についての情報量を多くもっていることが少なくないことに少し似ている。

 政権がやろうとしていることについて、抵抗してくる勢力だ、と見なしてこと足れりとするのでよいものだろうか。そこが疑問である。肝心なのは、政権がやろうとしていることである、獣医を増やすか、それともそれを押しとどめるか、だけではない。それとは別に、まず一つの規則として、できるだけ嘘をつかないことがいる。話し合いの過程で嘘をついてまでして、そこまでしてもやらなければならないことなのだろうか。

 話し合いの過程での嘘とは、たとえば不正確な引用があげられる。相手側が言ってもいないことをでっち上げてしまったり、またはねじ曲げてとりあげてしまう。そうした不正確な引用は、ふいにやってしまっていても駄目だし、ましてや意図してやっているのであれば、ごう慢であると言わざるをえない。政権は、日本獣医師会が言ったことや思っていることを、勝手に自分たちに都合のよいようにとりあげてはならない。日本獣医師会も、政権のことをねじ曲げないようにする。

 たんなる既得権益にすぎないのであれば、それを改めることがいるのはたしかである。それはたしかにあることは言えるけど、そのいっぽうで、ことわざでは餅は餅屋とも言われる。獣医の分野については、政権は餅屋ではない。そこは日本獣医師会のほうが餅屋に近いだろう。ゆえに、餅屋(に近いもの)からの意見をまっこうから否定してしまうのは合理的とは言いがたい。

 たとえ餅屋だからといっても、認識や判断にまちがいがないかといえば、そうとも言い切れないこともたしかである。視野が狭くなっていることはありえる。その危険性はあるにしても、だからといって頭ごなしに切って捨ててしまうのはいかがなものだろうか。頭ごなしに切って捨ててしまうようであれば、一歩まちがえると、恐怖政治のようにもなりかねない。はやばやと相手を見切ってしまうのではなく、いったんは相手の文脈にすり合わせるようにして、それから決断を下すのでも遅くはない。そうしたほうが、自分たちの文脈に凝り固まってしまうよりかは、まちがいが少ないのではないかという気がする。

 二つの文脈があるとして、どちらかが正しくどちらかがまちがっていると見なす。そうしてしまうと、きつい見かたになる。摩擦がおきてくる。これは白か黒かの単純弁証法のようなありかただ。敵か味方かみたいにして、相互敵対状態をまねく。悪く言えば、こうした敵対状態は、いわばなぐり合いのようなものである。物象化してしまっている。

 きついのではなくて、ゆるい見かたをとることもできる。ゆるい見かたのほうが摩擦が少ない。いたずらにぶつかり合ってしまうことを防げる。もしできるのであれば、摩擦が少ないやりかたのほうがのぞましい。あとは、むやみに相手を屈服しようとするのではなく、対立点があるのであれば、それを明らかにして、開かれたところで論じ合うようにできればよさそうだ。

 文脈どうしがおたがいに不毛にぶつかり合ってしまうのは、いっぽうの相手を不浄なものと見なすことによる。そうして不浄と見なすのではなく、けがれくらいにとどめておくのがよい。けがれと言っても、それは必ずしも否定的なものではないそうだ。それは否定的媒介または否定的契機であり、そうしたものを抑圧したり抹消したりしてしまわないで、創造を高めるために活かす。

国どうしの関わりにおいて、認知の不協和がおき、それを解消しようとするさいのやり方

 国の中で、禿げ山が多かった。そこへ緑を多く植えて、自然を豊かにした。社会基盤が不十分だったのを、色々と近代的な設備を整えた。経済についても、成長させて発達させて、よいほうへと進める。その他、教育なんかについても、近代の観念の大切さを広めた。

 かつての韓国にたいして、日本はこのようなよいことをした。よいことをしたのだから、感謝されてもよい。しかしそうではなくて、逆に恨まれてしまうようなあんばいだ。このようになってしまうと、認知的不協和がおきてくることになる。

 簡単に言うと、このようになる。日本は韓国に色々とよいことをしてあげた。しかし韓国はそれを感謝することがない。それどころか、恨んでくるところがある。こうなっていることから、認知的不協和がおきてくるわけだ。そこから、その不協和を解消するほうへと進んでゆく。

 すぐに不協和を解消するのではなく、あえて立ち止まってみることもできる。なぜ、認知的不協和がおきてしまうのかというと、いくつかの可能性があげられそうだ。まず、日本は韓国によいことをしたのではなく、実はしていなかったのがありえる。よいことをしたとする事実はないのである。それを、あったことのように言っているおそれがある。

 ほかの可能性として、日本は韓国によいことをした。そうした過去の事実がある。とはいえ、それだからといって、その事実をすぐに一般化することはできづらい。すぐに一般化してしまうのは早とちりだ。ふつう、自分が他に何かよいことをしたのだとしても、それはすぐに一般化されるものではない。限定化されるのがふつうである。

 日本が韓国へよいことをしたのだとしても、それはあくまでも、された側である韓国のほうが、これはよいことだったな、と感じるのでないとあまり意味がない。した側である日本がいくらよいことをしたと見なしていても、した側ではなくて、された側に評価の主導権があることはいなめない。された側が、これはありがた迷惑だったなだとか、よけいなことをしてくれたもんだな、と受け止めたのだとしたら、それが本当に近いのではないだろうか。

 日本にとってよいことを、かりに国益であるとする。そうであるとして、日本が韓国によいことをするのであれば、日本にとっての国益を捨てるのでないとならない。国益をかえりみないで、それをまっ先に得ようとはしない。このようであれば、韓国にとってよいことをするための必要条件が満たされやすい。

 日本が韓国へよいことをしてあげたとするのは、その見かたが日本の国益になってしまうところがありそうだ。そのような見かたをしてしまうと、日本の国益のために、韓国を利用することになりはしないだろうか。たとえば、日本が親で、韓国が子であるとすると、親の満足のために、子を利用してしまうようなふうである。そうしてしまうと、子が親に同質化されてしまう。

 日本が韓国へやったことが、よいことなのか、それともそうではないのか。この点については、少なくともちょっと決めがたいところがあるのではないかという気がする。あくまでもよいことをしたのにほかならない、と決めつけてしまうと、それは日本が自分たちを正当化することになる。しかし、韓国はそれを不当なものにほかならなかった、と言ってくる。そのどちらがふさわしいのかもあるし、それとは別に、上からの演繹でなしに、下からの帰納によって残されたさまざまな痕跡を見てゆくことがあればよさそうだ。

 よかれと思って、日本が韓国へ色々とよいことをしてあげた。これをまず認めるのだとすると、そもそも日本はなぜ韓国へそのようなことをしたのだろうか。よいほうへ向かわせようとしたからなのだろうか。その点については定かではないが、日本は韓国をよいほうへ向かわせようとしたのだから、日本は韓国にたいして倫理的な責任を少なからずもつのではないか。そうした責任がまったく無いとするのはちょっと納得できがたい。

 当為(ゾルレン)として、韓国は日本に感謝すべきだ、とするのは分からないでもない。しかし、実在(ザイン)として、韓国が日本を恨んでいるのだとすれば、その非の内のいくらか(あるいはすべて)を日本が負っていると言わざるをえない。この点については、ちょっと賛同を得られづらいおそれがあることはたしかだ。そのうえで、日本が韓国に介入したことが過去にあり、その結果として現に韓国がかくあるようになっているのであれば、そのかくあるようになっている原因(の一端)が日本にある、と見ることができる。これはあくまでも、たんなる解釈の一つにすぎないことはまちがいがないが。

どうなっているかの実在と、どうするべきかの当為は、2元的に分けて見ることもできる

 消費税の増税をするかしないか。目の前にはそうした矛盾がある。これについて、毛沢東が言ったとされる矛盾論を当てはめてみることができるのではないかという気がする。毛沢東は、目の前にある矛盾の、さらにその背後にある主要矛盾を認知せよ、といったのだという(元都知事の石原慎太郎氏が説明していた)。それでいうと、消費税の増税をするかどうかの矛盾があるとして、その背後には、人々がもつ将来の社会にたいする不安の心理があるのではないか。

 そうした将来の社会にたいする不安の心理を、まず認知するようにする。そうすることで、目の前の矛盾のさらに背後にある主要矛盾を認知することに近づける。将来の社会にたいする不安の心理の中には、政治家にたいする根強い不信感もありえる。そうした根強い不信感はみなが持っているものではないかもしれないが、いわば音楽でいわれる通奏低音のようにして全体に濃い負の空気として漂っているのがありえる。

 戦前や戦中のときのように、知らしむべからずよらしむべし、とするのだとあまりのぞましくはない。耳に快かったり、気持よく響いたりするようなことを言っているだけでは、実態を知ることにはつながりづらい。耳に不快だったり気持ちよくなく響くことであったとしても、それをもってしてすぐに売国だとか反日だとか決めつけてしまっては早計だろう。そこについては、加速度によって脊髄反射をしてしまうほど早まらずに、たまにはあえて遅速度によって別の角度からも見ることができればさいわいだ。

 日本国憲法でいわれる国民主権からすれば、主権をもつのは国民であり、国民は経営者であるとも言えそうである。経営者であるとすれば、その判断をするのに情報が色々あったほうがよい。わずかなものだったり、偏っているものだったりすれば、判断が狂ってしまう。まんべんなくおり混ぜてある情報があることで、判断の狂いを少なくできる。完全とはゆかず、限定されていたり限界があったりするとしても、その点をふまえられればよい。

 過去にこうなったから、これから先はこうなることがありえる。そのように見なすことができる。しかしそのさい、過去にこうなったとする読みとりが、必ずしも正しいものとはかぎられない。それはいわば大きな物語のようなものであるといえる。そうした大きな物語が通用しづらい現状があることも無視できない。そのため、大きな物語を持ち出すさいに、それを前提とするとして、その前提を完全に信じないで疑うことがあってもよい。

 過去にこうなったというさいの読みとりは、現実の次元のことがらである。そうしたことがらについて、読み誤ることがありえる。あんがいそうした誤りはおきやすいものだろう。それにくわえて、これから先にこうなるといったことについては、それを断定してしまうようだと、一神教のようになってしまう。しかしそうではなく、多神教のようなあり方であってもおかしくはない。一神教のようなあり方だときつくなるが、多神教のものであればゆるさがある。ゆるいほうが深いといったところもありえる。

 いっけんすると耳ざわりのよい理論があったとして、それをうのみにしてしまうようだと、一神教のようになる。たいていはある理論にはよいことだけではなく悪いこともあるはずだ。であるなら、よいことだけではなく悪いこともなるべく包み隠さずに示すのがよい。

 まるで理想のような理論があったとする。それは非の打ちどころのないものだ。そういった理想郷のようなものを、いざじっさいに当てはめようとすると、皮肉なふうになることがありえる。これは歴史上において少なからず見られたものである。そうした負の経験から教訓を得られるとすれば、理論の非の打ちどころのなさをうのみにするのではなく、それと実践とを分けて相対化するほうがのぞましい。実践によって裏切られることをあらかじめふまえておく。そのようにふまえておくのは、労力をよけいに使うので、まわり道になるところはある。予想どおりにゆくとして、裏切りをふまえないほうが、労力をかけずにすむ。そうした点が言えそうだ。

選挙戦の中で、色についてが少しだけ気になった

 緑の色を基調として、選挙戦をたたかう。都民ファーストの会はそのようにしていた。この緑の色を使うのは、公平性を欠くのではないかという気がする。公平性を欠くのがあるわけだが、そもそも、ほかのどこともかぶっていなければ、とくに問題があるわけではないのもたしかだ。とはいえ、ほかが遠慮しているだけなのかもしれない。とすれば、先に選んでしまったほうが有利になる。先行利益みたいなのもありえる。

 都民ファーストの会が緑の色を自分たちの色であるとしたことで、今回の東京都議会議員の選挙に大勝したのだと言ってしまえば、それは言いすぎになるだろう。色のよさを競って選挙がおこなわれたわけではない。いわば余剰であり、つけたりのようなものである。しかし、ちょっと見すごせないところであるような気もする。

 公平性を期するのであれば、都民ファーストの会は緑の色を自分たちをあらわすものとして、使うべきではなかった。そのように言うことができそうだ。いわば早い者勝ちのようにして、緑の色を自分たちをあらわすものとして使うのは、ほかの党に少なからず不利になる。自分たちに少しでも有利になりさえすれば、ほかの党のことはかまってはいられなかったのかもしれない。もしくは、結果論でいえば、都民ファーストの会こそがどこよりも緑の色をいかんなく使いこなせていたとも見なせる。ほかの党では、使いこなすとしてもちょっと役不足になりかねない。

 色の力で勝った、とは必ずしもいえないかもしれない。そのうえで、逆にいうと、都民ファーストの会以外のほかの党は、色の力で負けたとすることができるだろうか。それもちょっと言いすぎかもしれない。選挙の結果については色々な要因がからんでいるものだろうから、たんに色だけで決まったとすることはできそうにない。

 緑の色についての物神性(フェティシズム)みたいなのもあるかもしれない。そうした呪力みたいなものがはたらいている。緑の色がよい意味をあらわすものとして見なすからこそ、党をあらわす色として使っていたのであり、それは物神視していることをあらわす。それにくわえて、都民ファーストの会が緑を選びとることによって、あらためてそこに価値が生じてくる。緑への欲望がおきるわけである。

 都民ファーストの会が、自分たちをあらわすものとして、緑の色を使った。しかしこれを逆から見れば、緑の色が、都民ファーストの会を使ったといったところもあるかもしれない。こう言うと、ちょっと変なことを言っていると受けとられてしまうおそれがある。そのうえで、緑の色が都民ファーストの会を使ったというのは、緑の色にふさわしいように、都民ファーストの会が自分たちからふるまったところもありえる気がするからだ。緑の色に似つかわしくはないものとして、都民ファーストの会はふるまいはしなかった。

 心理においていえば、そこには効果または効用みたいなのがはたらくことがありえる。その効果や効用の作用は少なからず選挙の結果にも影響を与えたかもしれない。とはいえ、都民ファーストの会がみんなにとって見なれたものまたはありふれたものとなれば、新しみがなくなってくるため、緑の色も陳腐に映ってくるようになることがありえる。経済学でいわれる、限界効用逓減の法則がはたらくわけである。

 ボクシングでは、たしか挑戦者の側は青コーナーで、受けて立つ側が赤コーナーになっているようだ。挑戦者は相手のコーナーの色である赤を見て闘志を少しでもみなぎらせる。受けて立つ者は青の色を見ることで冷静にたたかう。そうした意味あいがあるそうだ。こうしたふうに色が決められていれば、理にかなっているところがある気がする。

やじの主体と、やじられる客体の、非固定的なありかた(関係主義的なありかた)

 こんな人たちには負けてはならない。ここでいうこんな人たちとは、選挙の演説中に、演説者に向かって厳しいやじを飛ばした人たちをさす。いわば、厳しいやじを飛ばしてきた人たちを逆手にとって、演説者がやんわりとやじをし返したようなものである。それにしても、たとえ一部の聴衆が厳しいやじを飛ばしてきたからといって、その人たちを、こんな人呼ばわりするのはいかがなものだろうか。そう言いたくなる気持ちもまったく分からないわけではないが。

 せっかく首相が選挙の演説に駆けつけて、そこで声を発している。それを聞きにきている人たちも少なからずいる。そうした人たちの邪魔をしてしまうのであれば、けしからんことである。また、選挙妨害にあたってしまうし、規則に反しているのはいなめない。

 もしそうした選挙妨害や規則に反しているのを(やや無理やりではあるが)肯定できるとすれば、たとえば緊急事態みたいなのを持ち出すことができるだろうか。それくらい、国政がいま危機におちいっているとの認識を一部の人がもっているとすれば、規則から少し逸脱してしまってもしかたがない。これは、実存状態または政治状態(非規範状態)がおきていることをあらわす。

 そんなふうにして、実存状態や政治状態などといったのを持ち出すことで、規則に反するやじを正当化してしまってよいのか。そうした点については、やや卑怯であるかもしれないが、人間の尺度を超えた自然史の観点を持ち出せるかもしれない。この観点においては、人間の尺度を超えてしまっているので、演説者にたいする否定のやじがおきるのは、理非曲直ではちょっとはかりがたいところとなる。演説者をぶん殴ったといったようなのならまちがいなく問題だが、やじの叫びを投げかけたのだと、そこは判断がむずかしいところが出てくる。

 演説者に向かって厳しいやじの叫びを投げかけたのは、けしからん面があるのはまちがいない。実証的に、厳しいやじが投げかけられたのがあるわけだが、それをあらためて見てみるとして、なぜそうしたやじが投げかけられたのか、とすることもできるだろう。やじが投げかけられたのを結果として、その原因はいろいろありえる。まったく言われもないのにやじが投げかけられたわけではないだろう。もっとも、そこは人それぞれの見かたによってまた違ってくるものではある。

 やじを投げかける人を、何かよからぬ陰謀をもった人だとか、こんな人たちだとかいって、いちがいにさげすんでしまうだけでよいものだろうか。さげすまれてしまう面はたしかにあるかもしれないが、逆に言えば、そうしてさげすまれるのを覚悟のうえで、あえてやじを投げかけたのかもしれない。そうであるのなら、やじを投げかけた人への惻隠(そくいん)心をもつこともあるいはできるかもしれない(そんなことはしたくもないとする人も少なくないかもしれないが)。

 演説者に向かって厳しいやじを投げかけるといった心情はわからなくはない。しかしそこは建て前である規則を守るべきなのではないか。そうしたことが言えるだろう。それについては、建て前とは義理であり、それを守るのは温かい義理であるときならやりやすい。しかし冷たい義理になってしまうのだと、もはや守りがたくなってしまい、心情が強く出てきてしまうところがある。これは、当為(ゾルレン)と実在(ザイン)でいうと、当為よりも実在が上まわってしまうようなあんばいだ。

 当為よりも実在が上まわってしまうのがいけないかどうかというと、それはものや場合によりけりだと言えそうだ。当為とは建て前であるから、集団の論理である。それが個の自由をさまたげてしまうことがありえる。そうであるとすると、個による自由を求める声が出てきてもおかしくはない。個の自由による権利(right)は、それがひいては正義(right)となり、みなの権利の肯定に結びつく。ちょっと虫がよいとらえ方であるかもしれないが、そうした面もありえる。

 理性(ロゴス)によって、ものごとを穏やかにやりとりし合うのも大切だ。しかしときには、荒ぶる感情(パトス)が表に出てきてしまうこともある。感情(パトス)とは受難でもある。感情や情動が動因となることによって、響きと怒りをもたらす。こうしたところからくるやじは雑音でもある。しかし雑音は必ずしも否定的なものとは言い切れそうにない。秩序の前には雑音による乱雑さがあり、混沌がある。唯物的に言えばそのようなところがありそうだ。

誤解と志向性による意味づけ

 誤解であることによる。政治家の人が失言をとり沙汰されて、そのように弁解した。受けとるほうが誤解しているのであり、まちがっているのだとしている。たしかに、失言したことが、もしそのように整合してとらえられるのであれば、その余地がある。しかし、受けとるほうが誤解したとするのが整合しないのであれば、かなり苦しい弁解にならざるをえない。受けとるほうが誤解したのにほかならないとして、先見でもってして決めつけていることになる。

 重箱の隅をつつくようにして失言をあげつらうのであれば、やりすぎになるおそれがある。しかし、言明の中心において失言をしていたのだとなれば、それについては大目にとらえて見すごすわけにはゆかないのではないか。ゆるがせにはできづらいところである。あまり厳しすぎるのもよくないかもしれないが、かといって大甘に見てしまうのだと、法の恣意的な当てはめになりかねない。なにが優先されるのかにおいて、それがかりに国家であるのだとしても、国家とは法である。ゆえに、ここはちょっとまずいといった線引きを踏みはずしてしまうのであれば、そこは非を指摘されてもしかたがないものだろう。

集団の長としての、建て前が守られたうえで発言がなされればよかったのだろう

 自衛隊としてもお願いしたい。防衛相をつとめる稲田朋美大臣は、選挙演説でこのようなことを述べた。それが波紋を呼んでいる。自衛隊を政治利用したと受けとられかねない。それで非難を受けているようだ。

 自衛隊を政治利用することは、政治的中立に反することになる。明らかに法に違反しているとの見かたもある。そこで、野党などは稲田防衛相の罷免を求めている。この求めを政権与党は退けた。与党と近しい日本維新の会松井一郎代表も、罷免はしなくてよいと述べている。窮地におちいっている稲田防衛相を、まわりの者が防衛しているようなあんばいだろうか。

 稲田氏が属する自由民主党の関係者からは、どうしてこのようなことを(稲田氏が)言ったのかがさっぱりわからない、とする声も上がっているという。しかし、稲田氏の日ごろからもっているであろう政治思想をふまえれば、むしろつじつまが合っている発言といえるのではないかという気がする。個人よりは集団を重んじる思想をもっているのだろうから、自衛隊を一つの集団として、それを束ねる長の意思がもっとも優先される。そうした全体論による発想をとっていてもおかしくはない。

 ほんらい、自衛隊は政治的に中立であることがいるとされる。しかし、稲田氏の日ごろから抱いているであろう思想をふまえてみると、この中立性がないがしろにされていても不思議ではない。中立をよしとするのではなく、もっと実質にふみこんでゆくような立場をとっているであろうからである。そうして実質にふみこむと、それをよしとしてくれる支持者もいるだろうけど、中立がないがしろになる面はいなめず、それが危険さとして生じるところがあるだろう。

 脳科学者の中野信子氏は、稲田氏が司法試験を通過(合格)している点を持ち出していた。それくらい頭がよいのだから、何かきちんとした計算にもとづいて発言をしたのだろう、といったふうに見ていたようである。たしかにその可能性もなくはないだろうけど、しかし逆に、まったく計算をしていないで、日ごろ頭に抱いている思想にもとづいてごく自然に発言したおそれもある。

 ちょっと例は適切ではないかもしれないが、たとえば頭がよいとひと口にいっても、オウム真理教の幹部をつとめていた信者に高学歴の人が多かったこともあげられそうだ。高学歴で、優秀な学校に入れるような人でも、必ずしもつり合いのとれた見かたができるとはかぎらないだろう。カルトのような、実質による世界観にころっとやられてしまうこともありえる。

 中立とは、何か単一の価値が押しつけられることとはいえそうにない。さまざまな実質による価値を、それぞれの人の意向に合わせて持つことを認めることだろう。そして、できるだけ公の場ではそうした実質による価値を一方的に持ち出さないようにする。こうした中立をある公人が守ったからといって、積極的に褒められたり評価されたりすることはあまりありそうにはない。逆に、中立をないがしろにして、実質による価値をぶち上げたほうが、一部の人からの大きな支持を得られやすい。ただそうした動きには、たとえ誘因や動機づけがはたらいてしまうにせよ、危ないところがあることはたしかだと言えそうだ。

貧しくなる自由があるとしても、市場による調整が成功するとはかぎらない(市場にまかせすぎると、失敗するおそれが高い)

 若い人たちに告ぐ。みなさんには、貧しくなる自由がある。何もしたくないのなら、そうしてもよいが、そのかわり貧しくなる。その貧しさを楽しんだらよい。いぜん、経済学者の竹中平蔵氏はこのようなことを述べたそうだ。

 たしかに、貧しくなる自由はあるのかもしれない。貧しくても豊かな生きかたはありえるだろう。いやむしろ、貧しいからこそ豊かな生きかたができるといったこともありえる。Less is more(より少ないことは、より豊かなことである)とも言われる。しかしいっぽうで、ことわざでは、貧乏暇なしなんていうものもある。竹中氏が述べているような、貧しさを楽しむゆとりは現実にはちょっともてそうにはない。

 なぜ、現実には、竹中氏の述べるような、貧しさを楽しむゆとりをもちづらいのか。いろいろな理由があげられそうだが、一つには、日本が経済一辺倒の単線型社会であることによりそうだ。経済で勝ち組になれればよいが、もしそうなれなくて負け組になってしまうと、お金がものを言う社会のなかでは生きてゆきづらい。

 経済による単線型の社会だと、安全網がはたらきづらいところがある。きちんと安全網をはたらかせるうえで、貧しくて落ちこぼれてしまうのを、負けではないようにする見かたがあってもよさそうだ。そうすることで、単線型ではなく複線型にすることができる。貧しくてもそれは質であり、経済的に勝つのとはまたちがったものだとできるわけである。

 単線型の社会では同質さによるありようがとられるが、そうではなくて、ちがう質も認められるようにすれば、単純な経済の勝ち負けで振り分けられてしまうことを防げる。たとえば、体質でいうと、陽のタイプと陰のタイプの人がいるとできる。そうした 2つのタイプがありえるが、単線型で同質さのありようがとられていると、陽のタイプを基準としてそこに最適化されてしまう。ちがう質をもった陰のタイプのことはあまり顧みられなくなる。

 生きてゆくうえでの基本的需要(ベーシック・ニーズ)は、誰しもそれを受けられるようなことがあるのがのぞましい。これについてはきれいな手(クリーン・ハンズ)の原則がはたらかない領域と見なせる。もしこうした基本的需要を受けることができないようであれば、それは問題だろう。それが与えられたうえで、さらに自分がどれくらいさまざまな物やサービスが欲しいかの、欲望の度合いに応じて、お金をたくさん稼ぐために努めてゆく。

 働かざるもの食うべからず、といったことわざもあるわけだけど、財政の一つの考えによれば、きれいな手の原則がはたらかない領域として、生存の欲求を見なすことができるそうだ。なので、生存にまつわる最低限の基本的需要を満たすのについては、条件つきの仮言命法ではなく、無条件の定言命法でもかまわない、と理論としては言えそうである。

 人間なら誰しも少しくらいの超自我(良心)は備えていると見なせるので、かりに無条件で基本的需要が満たされるとしても、それですぐさま社会が崩壊してしまうようにはならないのではないかという気がする。そこは、うまく人々の意向をそれとなく社会の維持のほうへもってゆくことも、工夫しだいによってはできなくはないだろう。より以上に欲しいものがあるのなら、市場原理によるところへ自由に参入することもでき、領域を線引きすることによって組み合わせをとるようにする。

厚生労働省による、医療の情報を見るときに気をつけておくべき 10個の注意点

 情報を見きわめる。そのための 10ヶ条の要点を記したサイトが、厚生労働省のなかにあった。それがこちらである。医療についての情報を見きわめるときに意識するためのものらしい。たしかに医療についての情報は、玉石が入り混じっているので、うまく見ぬくことはなかなかできづらい。医療にかぎらず、ほかの情報を見定めるときにもまた当てはまるところがありそうである。

 政治においても、こうした 10ヶ条の注意が守られていたほうが有益な議論になることがのぞめる。逆にいえば、この注意がおろそかにされてしまうようだと議論が不毛になってしまうおそれが避けづらい。おたがいに揚げ足をとり合ってしまうようになることもありえる。

 政権をになう与党であれば、自分たちだけのことを重んじる 1人称の立場がありえる。しかしそれだと、自分たちだけのことを重んじるわけだから、それに都合の悪いことをねじ曲げてしまいかねない。そのようにならないようにするためには、1人称だけではなく、2人称や 3人称の立場にも立たなければならない。そうしたいくつもの視点に立つことによって、はじめて偏りを少なくすることができるようになるとされる。

 先の国会では、与野党による議論が生産的なものにはならなかったとの反省の弁を、首相は記者会見で述べていた。それを、少しでも生産的な議論になるようにするためには、情報を見きわめるための 10ヶ条をふまえることが多少は役に立つ。しかしじっさいの政治の場では、自分たちに有利な情報には飛びつきやすいだろうし、逆に不利な情報はうとんじて遠ざけたい。そうした思わくがはたらく。そこに弱さがあるということもできるだろう。

 弱さがあるのだからしかたがないとして、大目に見ることはちょっとできがたい。それを言い訳にしてしまうようだと、性善説の立場に立ってしまうことにつながってくる。もしそうであれば、政府はいらないか、もしくは夜警国家のようにかぎりなく小さくしてしまってもかまわない。そうではなくて、性悪説の立場に立つのであれば、悪いことをやっていないかをつねに監視されたり、約束をきちんと守るかどうかをチェックされたりすることを受け入れるかぎりにおいて、はじめてあるていどの大きさの政府があってもよいものだろう。

 そうしたふうに言えそうなので、何らかの事情で政権(政府)が弱っているときこそ、あえて他からの批判を受け入れるようになれればよいのではないか。そうしたほうが、医療でいえば、変な情報に引っかかることを防げる。スキャンダルがもちあがって政権が弱っているときに、自分たちに都合のよい情報をもち出したり、都合の悪い情報を隠したりしてしまうのは、人情としてはわからないでもない。しかしそれをやってしまうと、医療でいえば、変な情報に飛びついてしまい、引っかかってしまうことに通じてくる。ちょっと例えがおかしいかもしれないが。

力量のある人が力を発揮するのも大事だろうけど、絶対優位ではなく比較優位であってもよさそうだ

 国のために国会議員ははたらく。あるていど以上の力量をもっているのであれば、つまらないスキャンダルによってつぶされてしまうのはもったいない。国にとっての損失になる。そうした意見も言えそうではあるが、そのスキャンダルの内容がいちじるしく遵法精神(コンプライアンス)を損ねているものなのであれば、おとがめなしとするのはちょっとだめなのではないかという気がする。

 政治家と秘書とのあいだで、力関係による嫌がらせ(ハラスメント)があったとして、多少のことであればやむをえないところもありそうだ。ただこうした嫌がらせは、まったくないのであればそれに越したことがないものでもある。ないですませられればそれが一番のぞましいので、必要悪のようなものだろう。現実には、そうした嫌がらせが少なからずおきてしまうところはあるだろうが、だからといってそれをもってしてよしとしてしまうようだと、自然主義による誤びゅうにおちいるおそれもある。現実にはこうだからとするよりかは、現実(ザイン)と当為(ゾルレン)を分けて別々に見るほうがよいのではないか。

 上の者と下の者といった関わりは、社会のなかでの役割と見ることができる。この役割は、擬制(ロール・プレイ)であることもたしかだろう。なので、その関わりを絶対であるかのように見なしてしまうのは間違いのもとになりかねない。こうした役割は、仏教でいえば空観であったり仮観であったり中観であったりと見なすことができそうだ。角度を変えて見ることができる。

 役割による関わりは相対化して見ることができる。役割による力の差といったものは、社会的な評価などによるものである。そうした評価は思いこみである観念がそこにはたらいている。表象(イメージ)みたいなものであり、それをかりにとっ払ってしまえば、たんなる人間であるのにすぎない。人間はみな自分を愛することがあってよいはずだし、自分を大切にすることがあってよい。そうした自己配慮を、何かの条件をもち出して不当に傷つけるようなことがあるのはまずいのではないか。

 力関係による嫌がらせは現実にはおきてしまうのだとしても、たとえば何かで怒ったのだとしたら、そのあとが大事になってくるのではないか。たんに非を責め立てて怒ってそれで終わりとするのではなくて、怒ったのなら怒ったぶんだけあとで埋め合わせるようにする。下の者が非を犯したのだとしたら、そのあと始末をしてあげるなどができたらよい。怒りっぱなしにするのではなくて、そのあとの面倒までしっかりと見てあげるようにすれば、下の者もついてくるのではないか。もしあとの始末や面倒をいっさい見るつもりがないのであれば、そのかわりに怒りもしない、などとする。じっさいには難しいことかもしれないし、場合によってもちがうだろうから、必ずしもよい手ではないかもしれないけど、怒りっぱなしにするよりかは少しはよいだろう。