力量のある人が力を発揮するのも大事だろうけど、絶対優位ではなく比較優位であってもよさそうだ

 国のために国会議員ははたらく。あるていど以上の力量をもっているのであれば、つまらないスキャンダルによってつぶされてしまうのはもったいない。国にとっての損失になる。そうした意見も言えそうではあるが、そのスキャンダルの内容がいちじるしく遵法精神(コンプライアンス)を損ねているものなのであれば、おとがめなしとするのはちょっとだめなのではないかという気がする。

 政治家と秘書とのあいだで、力関係による嫌がらせ(ハラスメント)があったとして、多少のことであればやむをえないところもありそうだ。ただこうした嫌がらせは、まったくないのであればそれに越したことがないものでもある。ないですませられればそれが一番のぞましいので、必要悪のようなものだろう。現実には、そうした嫌がらせが少なからずおきてしまうところはあるだろうが、だからといってそれをもってしてよしとしてしまうようだと、自然主義による誤びゅうにおちいるおそれもある。現実にはこうだからとするよりかは、現実(ザイン)と当為(ゾルレン)を分けて別々に見るほうがよいのではないか。

 上の者と下の者といった関わりは、社会のなかでの役割と見ることができる。この役割は、擬制(ロール・プレイ)であることもたしかだろう。なので、その関わりを絶対であるかのように見なしてしまうのは間違いのもとになりかねない。こうした役割は、仏教でいえば空観であったり仮観であったり中観であったりと見なすことができそうだ。角度を変えて見ることができる。

 役割による関わりは相対化して見ることができる。役割による力の差といったものは、社会的な評価などによるものである。そうした評価は思いこみである観念がそこにはたらいている。表象(イメージ)みたいなものであり、それをかりにとっ払ってしまえば、たんなる人間であるのにすぎない。人間はみな自分を愛することがあってよいはずだし、自分を大切にすることがあってよい。そうした自己配慮を、何かの条件をもち出して不当に傷つけるようなことがあるのはまずいのではないか。

 力関係による嫌がらせは現実にはおきてしまうのだとしても、たとえば何かで怒ったのだとしたら、そのあとが大事になってくるのではないか。たんに非を責め立てて怒ってそれで終わりとするのではなくて、怒ったのなら怒ったぶんだけあとで埋め合わせるようにする。下の者が非を犯したのだとしたら、そのあと始末をしてあげるなどができたらよい。怒りっぱなしにするのではなくて、そのあとの面倒までしっかりと見てあげるようにすれば、下の者もついてくるのではないか。もしあとの始末や面倒をいっさい見るつもりがないのであれば、そのかわりに怒りもしない、などとする。じっさいには難しいことかもしれないし、場合によってもちがうだろうから、必ずしもよい手ではないかもしれないけど、怒りっぱなしにするよりかは少しはよいだろう。