聞かれたことに(なるべくまともに)答えるくらいはあってもよさそうだ

 人権が損なわれるおそれがある。日本政府が成立をめざす共謀罪について、国際連合からの待ったの声がかかった。待ったがかかったというほど大げさなものではないかもしれないが、国連特別報告者のジョセフ・カナタチ氏は、日本政府にたいして書簡を送ったと報じられている。法案ができてしまうと、プライバシーや表現の自由がいちじるしくせばまってしまうおそれがある。そうした懸念を書簡では示しているという。

 日本政府はこの書簡にたいして、それを受け入れるのではない反応をとった。与党である自由民主党菅義偉官房長官は、政府としてはこの報告に断固として反対して抗議する、とのむねを述べた。どうしても法案を通したい政府としては、法案について反対する者は皆もれなくけしからん存在だと見なすことになるのだろう。

 国連の特別報告者の人が、わざわざ書簡まで送ってきて忠告してくれているのだから、それを頭からはねつけるのではなく、せめて少しくらいは聞き入れて耳を貸すべきではないのか。そのように感じた。それくらいは少なくともできることだろう。もしそれすらもできないというのであれば、扉を完全に閉め切って閉じこもっていることにひとしい。

 日本の国をいたずらにおとしめようとする勢力があり、そこからの差し金が、国連のなかに入りこんでいる。そうした見かたもあるかもしれないが、それはとりあえず置いておけるものとしたい。そのうえで、国連の特別報告者とはどのような存在かというと、これはいちおう第三者であるということは言えるだろう。いや、純粋な第三者とは言えないぞ、なんていう声もあるかもしれないが、相対的な第三者であるとひとまず仮定したい。

 日本政府は、この第三者からの忠告を受け入れたくはない。そのような態度をとっている。日本政府としては、日本の現実と自分たちとがぴったりと一致していると見なしたいのである。そのぴったりと一致していると見なしているところに、何かよけいなものが入りこんでくることはとうてい受け入れられない。それを受け入れてしまうと、日本の現実と自分たちとがぴったりと一致していなくて、ずれてしまっていることが明らかになってしまうからだ。足場がぐらつく。

 第三者からの忠告というのは、それが必ずしも正しいものだとはかぎらないのはある。必ずしも正確に的を得ているとは言い切れない。それにくわえて、日本の国の運営をになっている自分たちのほうが、日本の現実をよりくわしく知っているのだから、より正しいことができる。そうした見なしかたも成り立たないことはない。しかしそれは、大いなるうぬぼれであるおそれがあるのもたしかだ。

 宗教において、拝火教(ゾロアスター教)なんかでは、光と闇という二つの分け方がとられる。光である自分たちは、闇というまちがった者たちをやっつけて、はねのけてゆく。それで光をになう自分たちは、闇がじゃましてくるのをものともせず、とるべき道を一心につき進む。こうしたあり方がとられるものである。

 拝火教の説明としては、もしかしたらまちがっているおそれがあるのだけど、それは聞きかじりの素人であるために目をつぶってもらえればさいわいだ(言い訳になってしまうが)。そのうえで、光と闇という二つの分け方において、自分たちを光であるとして、相手を闇とするにしても、そこには欠けてしまっているものがある。その欠けてしまっているのが第三者の存在だ。

 光でも闇でもない、もしくは光でも闇でもあるのが第三者だ。それは二重性をもつ。それを一重なものとして、光であるとか闇であるとかして決めつけてしまうこともできる。たとえば闇であると決めてしまえば、それはまちがったものでありけしからんものとなる。しかしそうして決めてしまう前に、批判の声をしかるべく受け入れられたほうがのぞましい。全面的に受け入れるかどうかはともかくとして、門前払いしてしまうようだと、たんなる批判の声の排除になってしまう。こうして排除してしまうと、光と闇という二つの単純な分け方によるあやまちにはまりこんでしまう危うさがある。その危うさを、第三者は忠告してくれてもいるのではないか。

 社会関係においては、できるだけ一方向ではなく双方向のあり方がとられたほうがのぞましい。一方向であるのだと、自分に触発される独話(モノロジック)となりがちだ。いっぽう、双方向であるのなら、他者からの触発による対話(ディアロジック)がなりたつ。さまざまな利害関係者のさまざまな関わりがあるのだから、それらをすべてとり入れるのではないにせよ、なるべく開かれていたほうがよいだろう。そんなにすんなりと懐を開けるものではないかもしれないが。

 自分たちに反対してくる人たちは、自分たちとはまったく関係がないのかというと、そういうことではない。無関係なのであれば、そもそも反対してくることもない。反対してくる人たちも、一つの利害関係者であることはたしかである。それはあまり認めたくはないことではあるかもしれないが。そうしたわけで、少しずつではあっても、なるべく開いてゆくようにしたほうがよさそうである。そうではなくて閉じてゆくようにしてしまうのだと、そもそも開いてあるという状況を、隠ぺいしたり抹消したりすることになりかねない。

 立場が固定してしまうのではなく、転化したほうがよいのもある。たとえば何かについて反対するにせよ、それはたまたま反対の側に回っているのにすぎないのもある。そうした役割というのは、固定されてあるのではなくて、転化することがあるものだという気がする。東洋の陰陽の思想でいうと、陰と陽というのは相対的なちがいにすぎない。それらは反転することもある。たまたま今は陰であるかもしれないが、それはなんら本質に根ざしたことではない。なので、陰という属性にはそれほど意味はないというか、たんなる役割にすぎないので、ある点でいえば中立的なものですらあるかもしれない。