五輪の二面性(光であるだけではない)

 アマチュアリズムをよそおった労働詐欺だ。二〇二〇年にもよおされる東京五輪では、ボランティアの参加を募っている。このボランティアには、識者から、労働詐欺だとの批判の声が投げかけられている。

 ボランティアには交通費として一日一〇〇〇円までが与えられる。それ以外のお金はとくに支払われないようだ。費用は自己負担が求められている。一〇日間くらいの日数の拘束だったのが、批判を受けて、日数がやや短縮される見通しのようだ。昼食は与えられるという。

 批判の声が投げかけられているのにたいして、東京都の小池百合子都知事はこう言っている。ボランティアの待遇は過去大会にそこまで劣るものではない。何をもってブラックと言うのかわからない、とのことだ。

 ボランティアに参加するのは、参加する人の自由な意思によるのだから、それでよいではないか。外野がとやかくつべこべとうるさいことを言うべきではない。テレビ番組の出演者はそう言っているのがある。

 たしかに、テレビ番組の出演者が言うように、ボランティアに参加するのは、その人の自由な意思によるのはある。参加する人が満足するのであれば、それでよいという見かたは成り立つ。しかし、話をそれで終わりにしてしまうことはできそうにない。

 テレビの出演者は、五輪のボランティアに肯定の見かたを言っているが、それについては、五輪をテレビで放映して仕事としてお金を稼ぐ側に立った意見だととらえられる。中立な意見だとは言えそうにない。

 ボランティアは、五輪のためのものであり、五輪についてを見ることができる。五輪のもよおしは、光そのものということはできづらい。商業主義になってしまっているのがあるので、光そのものということはできず、光と闇があるということができる。二面性がある。ひどく言えば、闇だけだという見かたも成り立つ。これはかなり極端な見かたではあるかもしれないが。

 二面性ということでは、理想論と現実論に分けて見られる。理想論としてはのぞましいボランティアのあつかい方があるが、現実論としてはそれは難しい。そのほかに、規範と事実に分けることができる。規範としてはのぞましい形であるべきだが、(価値を抜きにした)事実としてはお互いの合意によるものだとできる。

 五輪が、誰のための、何のもよおしなのかが、もうひとつはっきりとしてこないのはいなめない。五輪の必要性がよくわからないのがあり、そこから、待遇のそれほどよくないボランティアの必要性もはっきりとしてこない。費用を自己負担させてまでボランティアを行なわせることが、人によっては受け入れづらいものになっている。五輪という光にたいする闇として、ボランティアの待遇のおかしさがある、と批判を投げかけるのは、的はずれなものだとは言えそうにない。