どうなっているかの実在と、どうするべきかの当為は、2元的に分けて見ることもできる

 消費税の増税をするかしないか。目の前にはそうした矛盾がある。これについて、毛沢東が言ったとされる矛盾論を当てはめてみることができるのではないかという気がする。毛沢東は、目の前にある矛盾の、さらにその背後にある主要矛盾を認知せよ、といったのだという(元都知事の石原慎太郎氏が説明していた)。それでいうと、消費税の増税をするかどうかの矛盾があるとして、その背後には、人々がもつ将来の社会にたいする不安の心理があるのではないか。

 そうした将来の社会にたいする不安の心理を、まず認知するようにする。そうすることで、目の前の矛盾のさらに背後にある主要矛盾を認知することに近づける。将来の社会にたいする不安の心理の中には、政治家にたいする根強い不信感もありえる。そうした根強い不信感はみなが持っているものではないかもしれないが、いわば音楽でいわれる通奏低音のようにして全体に濃い負の空気として漂っているのがありえる。

 戦前や戦中のときのように、知らしむべからずよらしむべし、とするのだとあまりのぞましくはない。耳に快かったり、気持よく響いたりするようなことを言っているだけでは、実態を知ることにはつながりづらい。耳に不快だったり気持ちよくなく響くことであったとしても、それをもってしてすぐに売国だとか反日だとか決めつけてしまっては早計だろう。そこについては、加速度によって脊髄反射をしてしまうほど早まらずに、たまにはあえて遅速度によって別の角度からも見ることができればさいわいだ。

 日本国憲法でいわれる国民主権からすれば、主権をもつのは国民であり、国民は経営者であるとも言えそうである。経営者であるとすれば、その判断をするのに情報が色々あったほうがよい。わずかなものだったり、偏っているものだったりすれば、判断が狂ってしまう。まんべんなくおり混ぜてある情報があることで、判断の狂いを少なくできる。完全とはゆかず、限定されていたり限界があったりするとしても、その点をふまえられればよい。

 過去にこうなったから、これから先はこうなることがありえる。そのように見なすことができる。しかしそのさい、過去にこうなったとする読みとりが、必ずしも正しいものとはかぎられない。それはいわば大きな物語のようなものであるといえる。そうした大きな物語が通用しづらい現状があることも無視できない。そのため、大きな物語を持ち出すさいに、それを前提とするとして、その前提を完全に信じないで疑うことがあってもよい。

 過去にこうなったというさいの読みとりは、現実の次元のことがらである。そうしたことがらについて、読み誤ることがありえる。あんがいそうした誤りはおきやすいものだろう。それにくわえて、これから先にこうなるといったことについては、それを断定してしまうようだと、一神教のようになってしまう。しかしそうではなく、多神教のようなあり方であってもおかしくはない。一神教のようなあり方だときつくなるが、多神教のものであればゆるさがある。ゆるいほうが深いといったところもありえる。

 いっけんすると耳ざわりのよい理論があったとして、それをうのみにしてしまうようだと、一神教のようになる。たいていはある理論にはよいことだけではなく悪いこともあるはずだ。であるなら、よいことだけではなく悪いこともなるべく包み隠さずに示すのがよい。

 まるで理想のような理論があったとする。それは非の打ちどころのないものだ。そういった理想郷のようなものを、いざじっさいに当てはめようとすると、皮肉なふうになることがありえる。これは歴史上において少なからず見られたものである。そうした負の経験から教訓を得られるとすれば、理論の非の打ちどころのなさをうのみにするのではなく、それと実践とを分けて相対化するほうがのぞましい。実践によって裏切られることをあらかじめふまえておく。そのようにふまえておくのは、労力をよけいに使うので、まわり道になるところはある。予想どおりにゆくとして、裏切りをふまえないほうが、労力をかけずにすむ。そうした点が言えそうだ。