日本国憲法は、時間割り引きの率の大小によって見ることができそうだ

 日本国憲法の改正は、党の決まりである。党是であるのだという。それにたいして、憲法の改正は必ずしも自由民主党の中心目標とはいえないとの声もある。何よりも優先してやらなければいけないことではなく、数ある目標のなかの一つである。それをあたかも党の存在理由(レーゾン・デートル)であるかのごとく、全面に打ち出しているのが、安倍晋三首相である。そこについては、(党の歴史についての)意図された事実の操作がありえる。

 憲法は、今の時代にそぐわなくなってきているとの声も一部からあがっている。そのさい、経済学でいわれる時間割り引きのとらえかたを当てはめることができそうだ。時間割り引きとは、将来の価値を現在の価値によって評価するものであるという。

 時間割り引きが大きいとは、現在の価値を大きく見て、未来の価値を小さく見ることである。それが大きいと、たとえば未来のためにお金を貯めておくことができづらい。今使ってしまう。現在の価値を大きく見なし、未来の価値を小さく見てしまうためである。

 時間割り引きには、その率が一定なのがあり、それを指数割り引きという。一定でないのを双曲割り引きというそうだ。一定でない双曲型は、人間や動物のありかたに当てはめられる。わかってはいるけどやめられない、といった、目先の誘惑に負けがちなのがあるが、それは双曲型であることによっている。

 人間や動物は双曲型である弱点をもつ。こうしたありかたは、時間非整合であるとされる。時間が経つうちに、はじめに立てた計画(プラン)がしだいに適さなくなってくる。この時間非整合の問題を解決するために持ち出されるのが、コミットメントである。

 はじめに立てた計画がしだいに適さなくなってくるとしても、だからといって変更するのがふさわしいのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。人間は双曲型であるから、たんに目先の誘惑にそそのかされていて、それに負けているだけなのがありえる。そうした弱点をあらかじめ見こしておいて、うまい手を打っておく。

 その手を打つのに当たるのが、コミットメントであり、これによって計画を維持することにつながる。計画を破ってしまうのがディタッチメントであるとすると、それをかんたんにはやらせないのである。

 コミットメントするのには利点がいくつかありそうだ。一つには、目先の誘惑に負けてしまいがちな、双曲型であるがゆえの人間の弱点に止めをかけられる。気持ちが変わったり移ろったりすることなどからくる、時間非整合の問題の解決につながる。

 ディタッチメントをすることについては、欠点があげられる。まず、ディタッチメントをするかしないかが分かれてしまう。そうすることがふさわしいのか、それともふさわしくないのかで、水かけ論になりかねない。こうした水かけ論をやり合う時間は、議論がかみ合わないとすると、あまり生産的とは言いがたい。

 計画(決まり)とはいっても、がちがちにしばられたものではなく、ある程度の融通がきくものであれば、それを撤回してしまうのは必ずしも喫緊の課題であるとはいえないだろう。それよりも、ほかの喫緊の課題にとり組んでいったほうが、より有益であることがありえる。

 決まりを絶対化せずに相対化するのは必ずしも否定されるものではない。しかしそのさい、そうとうにさまざまな角度からとらえてゆかなければならないのがある。たんに一つか二つの角度からだけ見るのでは足りないだろう。色んな知見をふまえて、総合的に見ることによって、帰結を導くのができればのぞましい。たんなる動機主義や結果主義は避けられなければならない。

 そうして色々な知見をふまえつつ、十分に時間をかけて帰結を見てゆく過程がとられること自体が、一つのコミットメントになるだろう。そうではなく、すぱっと斫断(しゃくだん)して捨象してしまうようであれば、それの放棄につながってしまう。

 自己保存はいっけんすると理にかなっているが、それは自己愛であり、欲動(リビドー)であり、力への意志である。そうしたものが肥大して増大してしまうことによって、かえって自己の破滅へと行きつく。そうした自己の破滅へと行きついてしまった過去の負の経験によって、それへといたらないような工夫をとる。その一つの工夫が、軍事権の放棄であり、外交努力の促進だといえそうだ。この工夫については、残念ながらじっさいには逆になっていて、外交努力の放棄と軍事権の復活が一部から強く叫ばれてしまっている。

 軍事権の放棄といっても、国内の治安警察活動は行なわれているわけで、対外的な武力行使が禁じられているにすぎない。国内が丸腰であるわけではなく、外からの敵にたいしてまったく無防備でいるわけではないのがある。いまある備えだけでは足りず、それ以上に高めようとする声もあるだろう。しかしそれについては、ようはできるだけ安全に、平和的な生存ができればよいのであって、その目標を達するための手段はさまざまだ。たんに力を強めればよいといったものとは言えそうにない。むしろ力が抑えられて限定されているがゆえに正しいあり方だともいえる。

 国際的な流れでも、武力の行使ではなく、その不行使が是とされているのがあるそうだ(建て前にすぎないのはあるだろうが、少なくとも建て前の上ではそうなっている)。武力の行使の容認は、相互敵対状態の温存だ。いくらそれが自然であるといっても、いずれ暴力による破滅につながるおそれが高い。そうしたのもあるので、何らかの手によって克服されなければならないものだろう。