ナチスを肯定してしまうのだとしても、そこに確証バイアスによる認知のゆがみがはたらいているのは想像に難くない(どのみち認知はゆがんでしまうかもしれないが)

 ナチスにはよい面もあった。なのでかならずしも否定されることはない。そうした意見もあるわけだけど、これだと相対主義のようになってしまうのがありそうだ。そうした相対化は許されるものなのだろうか。

 相対化して見てしまうのではなく、絶対化して見たほうがよいのがある。そうするのがよいのについては、普遍とか理念とかが関わってくるのがありえるからである。ナチスが悪であるのは、一つの普遍であり、理念であるとできる。

 ナチスを見るのにさいしては、そこに観察者が負っている理論のようなものが反映されるのがありえる。であるから、そうして負っている理論の影響をまったく受けないで見ることはできづらい。そうしたきらいはあるが、少なくとも実践においては、(あるていど相対的に見ることができる)現象を超えて、普遍や理念とする。そうしてナチスを悪としたほうが、主要価値としやすい。

 このようにして、普遍や理念として見ることが、絶対に誤りのないものかといえば、そうとは言い切れそうにない。もし、絶対に誤りのないものとして見てしまうようだと、ゆるぎのない真理のようになる。しかし現実には、(本当にあったことと)どのように対応するのかや、整合するのかや、実用するのかといったように、いくつかの角度から見ることができるものではあるだろう。

 ナチスによる被害を受けたとして、語られる証言がある。その証言がねつ造であるおそれはまったくないとは言い切れそうにない。そのうえで、そうしたねつ造かどうかのおそれをふまえるさいに、言われていることの真偽がかかわるのがある。その真偽をふまえるのにさいして、寛容の原則をもつことがいるだろう。

 被害を受けたとする証言について、はなから嘘の証言だとして疑ってかかってしまうと、寛容の原則に反することになる。これはかならずしも合理的な態度とは言えそうにない。証言を頭から退けてしまうと不寛容になる。偽の証言であるとできる確たる論拠でもないかぎりは、偽のことを言ってはいないとの前提に立つ。言っていることが現実と不整合にならないのであれば、解釈としてみて受け入れられるものである。

 はたして真理であるのかどうかといったのをひとまず置いておけるとすると、ナチスのできごとは、一つの認識論的断絶であると見なせるのではないか。あまりにも悲惨かつ多大な被害をまねいてしまったナチスの負の行ないは、そこに一つの不回帰点を形づくった。そうしてできた不回帰点には、できるだけ回帰しないように努めることが、後世に残された人間にせめてものできることの一つである。深く刻まれている負の痕跡を、あたかも正の痕跡であるかのように読み替えてしまうのはちょっとまずい。

 負の痕跡は、暴力によって形づくられた過去の廃墟であり、(ありのままにといったようには行かないだろうけど)やりようによってはそこから意味を浮かび上がらせることができる。そうではなく、廃墟などなかったとしてしまうのであれば、消極的な虚無主義のようになってしまう。虚無主義におちいってしまうのは多少はいなめないとしても、不用意に意味をでっち上げるのだとまた問題だ。これは言葉によってものごとを記述したり発言したりするのにさいしておきてしまうやっかいさだろう。虚無主義からの言動は、群衆によって担われる。根づよい虚無にとりつかれた群衆の心理は全体主義を呼びこむ。権威づけされた虚焦点としての指導者がまつり上げられる。そうした危なさもありえる。

 群衆と言ってしまうと、なにか大衆を見下したようなふうになってしまいかねない。そうしたおそれはあるけど、それぞれの個人といった単位を前提とするのとは別に、あるひとかたまりの個人の集まりを想定することもできそうだ。そこでは、虚偽によるイデオロギーからの呼びかけに受け答えることによって主体が形づくられる。それは虚偽によるイデオロギーに都合のよい主体である。そうした構造の効果として主体があるといえそうだ。ある構造が作用した結果としてひとりの主体はありえる。構造主義ではそのように言われているという。

 英語は国際語であり、屋外語であるといわれる。いっぽう日本語は国際語ではなく、屋内語であるとできるようである。こうしたちがいはそれほど確固としたものではなく、あくまでも相対的なものではあるだろう。そのうえで、日本語は屋内語であり、屋内である日本国内でさえ通用すればそれでよいのだ、としてしまいがちなところがありそうである。そこで失われているのは、(周辺国を含めて)屋外でははたしてどうなのか、といった点だろう。そうした点もふまえられれば、屋内に閉じこもってしまうことを少しは防げそうだ。内外の相互関係性がとられていたほうが、内だけとか外だけとかにならずにすむ。