悪い人のよい発言を、平等にとり扱うべきか

 すごく悪いことをした人が、すごくよいことを言っている。そのよいことを言っている部分を、肯定的に評価して受け入れてもよい。なにも全否定することはない、というわけだ。こうした受けとり方は、先入見みたいなのをまったく取り外してしまうようなものなのかも。しかし、どうやってみたところで、そうした先入見による解釈というのは関わってきてしまうものなのではないか。

 ナチスを率いたアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』という本があるようなんだけど、これについてみても、まず、ヒトラーという名前の意味を消すことはむずかしい。この固有名が持っている歴史的な意味を、無意味にすることはできない。無意味にしようとしても、それはかえって不遜になってしまう。そうしたおそれがありそうだ。

 ヒトラーという固有名は、メタ言語としてはたらく。なので、『わが闘争』という本は、ヒトラー(が記したもの)として見よ、という作用によって受けとらざるをえない。そこには、歴史的な意味あいが強く付着している。その付着している意味あいは、『わが闘争』の本文からすると、余計なものといえばいえなくもない。しかし、その余計なものにこそむしろ重みがある。

 すごく悪いことをした人でも、すごくよいことも言っている。そのよいことを言っているのを取り上げるのは、平等のあらわれかもしれない。しかし、平等であることと、歴史的になしたことを軽んじることとは、またちがってくる。歴史的になしたことをふまえつつ、平等にも扱うというのなら、広く世に目を向けることが可能である。一つのことにこだわる必要がない。

 よいことを言っていても、すごく悪いことをしてしまった。とすると、そのどちらを重んじるべきだろうか。これは一概には言えないかもしれない。かりに、すごく悪いことをなしたという点を重んじてみる。すると、すごく悪いことをなしたというただその一点だけで、すべてが台無しになった、とできる。たとえよいことを言っていても、つつがなく生きた大多数の無名の人よりも、むしろ評価がずっと低い。何もよいことは言っていず、言葉もとくに残さなかったが、可もなく不可もなくとして生きた人のほうが、評価はずっと高い。

 平等にとり扱うのと、歴史的な意味あいを消してしまうのとは、またちょっとちがうことなのではないかという気がする。そこを取りちがえてしまうと、かえって平等にならなくなってしまいそうだ。

 いや、そんなことを言ったって、歴史的な意味あいなんか軽んじてもよいではないか、とも言える。つくられた歴史かもしれないし、でっち上げられているかもしれない。誇張されているのもありえる。疑えばきりがない。

 たしかに、歴史的な意味あいを疑うことはできるけど、それを疑ったところであまり意味があるとは思えない。ただ、なかには疑うことがいるものもあるかもしれないけども。それは、まだ評価がしっかりと世間で固まっていないものに限られるだろう。

 疑うさいには、陰謀理論なんかを持ち出すこともできる。そうすると非合理におちいるおそれがある。すべてを疑い出したら切りがないわけで、それは万人が争いあう自然状態(戦争状態)に等しい。どこかで切りをつけて、あるていど評価が確立しているものについては、それを信用して、合理的に受けとることもいる。そうしないと不毛である。

 すべてを平等にとり扱い、歴史的な意味あいを消し去ってしまうと、それは混沌になりそうだ。無区別であるし、無差別であり、無批評である。これはあり方としてはちょっとおかしいし、現実的でない。無法者(アウトロー)がいるとして、その人がのさばってしまうのを見すごすようなものだろうか。そこは、合法と違法みたいなもので、歯止めをかけたほうがよい。それが、歴史的な意味あいになるのではないか。こうしたことをふまえた上での区別は、そこまで差別的にはならないと思う。

 かりによい部分があったとしても、よい部分があるけど駄目なんだ、とする。こうではなくて、逆にしてしまうと危うい。駄目だ(と広く言われている)けど実はよい部分もあるのだ、としてしまうのだとちょっとまずい。こうすると、駄目だのところを隠ぺいしてしまうことにつながる。最後の結論は、駄目なんだというので終わらせたほうがよい。歴史上の過去の人についてはそうしておく。このさい、結論としての駄目なんだというのが、ゆずれない原則(原理)になる。これは、かりによい部分があったとしてもの話ではあるのだけど。

 よいけど駄目、ではなく、駄目だけどよい、として何がいけないのか。どちらをとるとしても、それはそれぞれの自由だろう。押しつけるように人のやることを決めつけるな。そうしたふうに言うこともできる。人がどういうとらえ方をしようとも、それはその人の自由ではある。そのうえで、結論をどうするかを先に決めて、そこから逆算するのがよいのではないか。駄目なものなら、まず駄目という結論をしっかりと固定する。イエスなのかノーなのかということだ。そうしたふうにはっきりとさせておかないと、結論がうやむやになりかねない。煮え切らなくなる。もっとも、はっきりとさせたところで、結論となる意見が割れるのもあるだろうけど。

 ヒトラーのように、あるていど歴史的な負の意味が定まった過去の人であれば、決めつけてもとくに問題はないかもしれない。負荷をかけてしまう。しかし、いま現に生きている人もいるから、そういう人にたいしての配慮がおそろかだったと省みている。無法者がのさばってしまうとはいえ、これをけしからんとする発想は、不条理な暴力や差別につながりかねない。なので、先入見をとり外して、虚心に見ることもいる。いま現に生きている人については、負荷をかけないで見るほうがよいかもしれない。