宗教と無宗教のはざ間

 日本人には宗教がない。無神論的だ。なのに道徳的なのだから立派だ。こうした意見を見かけた。しかしはたして本当にそうなのかな。戦前や戦中には、当時の天皇を現人神として神格化したのではなかったか。国家神道によって、神風が吹くとの見こみで現実を無視して突き進んでしまった。

 日本人に宗教があるかないかはとりあえず置いておくとしても、排外思想という傾向がある。この排外主義というのは、問題がないとはいえない。いまでもそうした負の傾向を、残念ながら持ってしまっているきらいがある。何かある特定のものを排斥することで、それが外に叩き出される。ふつうはけがれとされるが、それにくわえてときに聖別もされる。そうすると、聖なる者である神がなりたつ。

 民俗学者柳田国男氏は、かつて日本には氏神信仰があったとしているみたい。これはちょっと興味深いなと感じた。儒教の思想にも通ずるところがありそうだ。自分が死んだら、氏神として神さまになれる。なので、子や孫を大切にした。儒教の孝の精神のようなものだろう。

 かつては、日本にはこうした心のより所があった。しかし今では失われてしまったと言ってもさしつかえない。だからといって、それをそのまま今に持ってきて、復活させようとするのは難しい。そこまで簡単な話ではないだろう。断絶となる不回帰点(不連続点)があるからだ。たとえば、自動車がなかった時代にまた戻れるかといえば、それは難しい。

 氏神信仰のような、昔の信仰が失われたことで、老いへの格下げの評価がおきているのもいなめない。自分が将来必ず老いるのにもかかわらず、非生産的なものとして老いを否定するのは、天に向かってつばを吐きかけることになりはしないかと危ぶむ。社会保障の負担も無視はできない。ただ、そうした金銭の面に引っぱられるのだと、近代のテーゼのようなものに拍車がかかってしまう。

 非生産的なものをやっかいなものとしてとり除くと、かえって自滅につながる面もなくはない。しかし、自滅とはいっても、社会保障の負担が大きくなるのもまた危ういではないか、とも言える。それもまた確かなことである。しかし、あらためて、いったい何のための生産性なのだろうかと、いま一度見なおしてみるのも手だ。誰のための生産性や効率性なのか。何のために科学技術を発展させてきたのだろうか。これまでに成し遂げられた社会の進歩と発展は、誰の幸せにつながっているのか。こうした点が、ふり返ることができるところかもしれない。