貧しくなる自由があるとしても、市場による調整が成功するとはかぎらない(市場にまかせすぎると、失敗するおそれが高い)

 若い人たちに告ぐ。みなさんには、貧しくなる自由がある。何もしたくないのなら、そうしてもよいが、そのかわり貧しくなる。その貧しさを楽しんだらよい。いぜん、経済学者の竹中平蔵氏はこのようなことを述べたそうだ。

 たしかに、貧しくなる自由はあるのかもしれない。貧しくても豊かな生きかたはありえるだろう。いやむしろ、貧しいからこそ豊かな生きかたができるといったこともありえる。Less is more(より少ないことは、より豊かなことである)とも言われる。しかしいっぽうで、ことわざでは、貧乏暇なしなんていうものもある。竹中氏が述べているような、貧しさを楽しむゆとりは現実にはちょっともてそうにはない。

 なぜ、現実には、竹中氏の述べるような、貧しさを楽しむゆとりをもちづらいのか。いろいろな理由があげられそうだが、一つには、日本が経済一辺倒の単線型社会であることによりそうだ。経済で勝ち組になれればよいが、もしそうなれなくて負け組になってしまうと、お金がものを言う社会のなかでは生きてゆきづらい。

 経済による単線型の社会だと、安全網がはたらきづらいところがある。きちんと安全網をはたらかせるうえで、貧しくて落ちこぼれてしまうのを、負けではないようにする見かたがあってもよさそうだ。そうすることで、単線型ではなく複線型にすることができる。貧しくてもそれは質であり、経済的に勝つのとはまたちがったものだとできるわけである。

 単線型の社会では同質さによるありようがとられるが、そうではなくて、ちがう質も認められるようにすれば、単純な経済の勝ち負けで振り分けられてしまうことを防げる。たとえば、体質でいうと、陽のタイプと陰のタイプの人がいるとできる。そうした 2つのタイプがありえるが、単線型で同質さのありようがとられていると、陽のタイプを基準としてそこに最適化されてしまう。ちがう質をもった陰のタイプのことはあまり顧みられなくなる。

 生きてゆくうえでの基本的需要(ベーシック・ニーズ)は、誰しもそれを受けられるようなことがあるのがのぞましい。これについてはきれいな手(クリーン・ハンズ)の原則がはたらかない領域と見なせる。もしこうした基本的需要を受けることができないようであれば、それは問題だろう。それが与えられたうえで、さらに自分がどれくらいさまざまな物やサービスが欲しいかの、欲望の度合いに応じて、お金をたくさん稼ぐために努めてゆく。

 働かざるもの食うべからず、といったことわざもあるわけだけど、財政の一つの考えによれば、きれいな手の原則がはたらかない領域として、生存の欲求を見なすことができるそうだ。なので、生存にまつわる最低限の基本的需要を満たすのについては、条件つきの仮言命法ではなく、無条件の定言命法でもかまわない、と理論としては言えそうである。

 人間なら誰しも少しくらいの超自我(良心)は備えていると見なせるので、かりに無条件で基本的需要が満たされるとしても、それですぐさま社会が崩壊してしまうようにはならないのではないかという気がする。そこは、うまく人々の意向をそれとなく社会の維持のほうへもってゆくことも、工夫しだいによってはできなくはないだろう。より以上に欲しいものがあるのなら、市場原理によるところへ自由に参入することもでき、領域を線引きすることによって組み合わせをとるようにする。