やじの主体と、やじられる客体の、非固定的なありかた(関係主義的なありかた)

 こんな人たちには負けてはならない。ここでいうこんな人たちとは、選挙の演説中に、演説者に向かって厳しいやじを飛ばした人たちをさす。いわば、厳しいやじを飛ばしてきた人たちを逆手にとって、演説者がやんわりとやじをし返したようなものである。それにしても、たとえ一部の聴衆が厳しいやじを飛ばしてきたからといって、その人たちを、こんな人呼ばわりするのはいかがなものだろうか。そう言いたくなる気持ちもまったく分からないわけではないが。

 せっかく首相が選挙の演説に駆けつけて、そこで声を発している。それを聞きにきている人たちも少なからずいる。そうした人たちの邪魔をしてしまうのであれば、けしからんことである。また、選挙妨害にあたってしまうし、規則に反しているのはいなめない。

 もしそうした選挙妨害や規則に反しているのを(やや無理やりではあるが)肯定できるとすれば、たとえば緊急事態みたいなのを持ち出すことができるだろうか。それくらい、国政がいま危機におちいっているとの認識を一部の人がもっているとすれば、規則から少し逸脱してしまってもしかたがない。これは、実存状態または政治状態(非規範状態)がおきていることをあらわす。

 そんなふうにして、実存状態や政治状態などといったのを持ち出すことで、規則に反するやじを正当化してしまってよいのか。そうした点については、やや卑怯であるかもしれないが、人間の尺度を超えた自然史の観点を持ち出せるかもしれない。この観点においては、人間の尺度を超えてしまっているので、演説者にたいする否定のやじがおきるのは、理非曲直ではちょっとはかりがたいところとなる。演説者をぶん殴ったといったようなのならまちがいなく問題だが、やじの叫びを投げかけたのだと、そこは判断がむずかしいところが出てくる。

 演説者に向かって厳しいやじの叫びを投げかけたのは、けしからん面があるのはまちがいない。実証的に、厳しいやじが投げかけられたのがあるわけだが、それをあらためて見てみるとして、なぜそうしたやじが投げかけられたのか、とすることもできるだろう。やじが投げかけられたのを結果として、その原因はいろいろありえる。まったく言われもないのにやじが投げかけられたわけではないだろう。もっとも、そこは人それぞれの見かたによってまた違ってくるものではある。

 やじを投げかける人を、何かよからぬ陰謀をもった人だとか、こんな人たちだとかいって、いちがいにさげすんでしまうだけでよいものだろうか。さげすまれてしまう面はたしかにあるかもしれないが、逆に言えば、そうしてさげすまれるのを覚悟のうえで、あえてやじを投げかけたのかもしれない。そうであるのなら、やじを投げかけた人への惻隠(そくいん)心をもつこともあるいはできるかもしれない(そんなことはしたくもないとする人も少なくないかもしれないが)。

 演説者に向かって厳しいやじを投げかけるといった心情はわからなくはない。しかしそこは建て前である規則を守るべきなのではないか。そうしたことが言えるだろう。それについては、建て前とは義理であり、それを守るのは温かい義理であるときならやりやすい。しかし冷たい義理になってしまうのだと、もはや守りがたくなってしまい、心情が強く出てきてしまうところがある。これは、当為(ゾルレン)と実在(ザイン)でいうと、当為よりも実在が上まわってしまうようなあんばいだ。

 当為よりも実在が上まわってしまうのがいけないかどうかというと、それはものや場合によりけりだと言えそうだ。当為とは建て前であるから、集団の論理である。それが個の自由をさまたげてしまうことがありえる。そうであるとすると、個による自由を求める声が出てきてもおかしくはない。個の自由による権利(right)は、それがひいては正義(right)となり、みなの権利の肯定に結びつく。ちょっと虫がよいとらえ方であるかもしれないが、そうした面もありえる。

 理性(ロゴス)によって、ものごとを穏やかにやりとりし合うのも大切だ。しかしときには、荒ぶる感情(パトス)が表に出てきてしまうこともある。感情(パトス)とは受難でもある。感情や情動が動因となることによって、響きと怒りをもたらす。こうしたところからくるやじは雑音でもある。しかし雑音は必ずしも否定的なものとは言い切れそうにない。秩序の前には雑音による乱雑さがあり、混沌がある。唯物的に言えばそのようなところがありそうだ。