失敗をしてしまったことにおける、動機と結果のちがい

 そんなつもりではなかった。それを理由に持ち出して、失敗したことの言い訳としてはならない。政治家の人が、自分の秘書にたいして、そのようなふうにとがめた。そんなつもりではなかったのを言い訳にして失敗が許されるのであれば、たとえば車で人をひいたさいにもそれが持ち出せるではないか、といったことを例としてあげていた。

 そんなつもりではなかったというのは、動機である。そして、失敗をしてしまったのは結果である。このさい、動機はまちがってはいなかったが、結果がまちがってしまった、といえる。動機がよかったのだとしても、結果がまちがってしまったのであれば、台なしであることはたしかである。

 動機はよくても結果がだめだったのであれば、故意ではなくて過失だといえる。そして、動機がよいことをもってして、結果がだめだったことの言い訳にはできない、とするのは正しいだろう。しかし、たとえ正しいからといって、あまりねちねちとしつように非を責め立てるのはどうだろう。少なくとも、動機も結果も共にだめであるよりは救いようがあるし、情状酌量の余地もあるのではないだろうか。性善説により、失敗者へ惻隠(そくいん)心をもつことができる。もっとも、動機がよいとはいっても、それは建て前であり、じっさいにはすごい怠慢をしているのであれば、本音が問われることになる。

 車で人をひいてしまったなんていうことであれば、そうとうな大ごとであり、民事や行政や刑事の責任が運転手には問われることはまちがいがない。そうした事故においては、すでにそれがおきてしまったのであれば、現実と化したわけであり、後戻りできない不回帰点がおきたことになる。

 車の事故であれば、あるていどはどのような罰則が科されるのかの予測が立つ。罪刑法定主義がとられているためである。しかし、仕事での失敗なんかだと、どれくらい上の者からとがめられるのかがわかりづらいところがあるかもしれない。上の者のそのときの虫の居所しだいによってしまうおそれがある。ひどく虫の居所が悪いときであれば、失敗を必要以上に誇張されて、あたかもとんでもないことをしでかしたかのような言われかたをされかねない。冷静に見れば、そこまで言われることでもないものであることもありえる。

 上の者は、絶対君主ではないのだから、朕は法なり、みたいなふうにならないようであればさいわいだ。たとえ上の者において、朕は法なりとして、その法がふさわしいと見なせるものであったとしても、そこにおいて通じている理屈は、完全に正しいものであるとは言い切れない。(上の者による理屈において)下の者を不当にいじめてしいたげるつもりはなかった、との動機から、結果として下の者をそうしてしまったことの言い訳にはちょっとなりそうにない。

出発点となるところをいったん取り消して、原則(石破 4原則)に立ち返ってやっていったほうがよいのでは

 特定の地域の一ヶ所だけ、特区として規制をはずす。その一ヶ所に当たったのが、たまたま首相と長年のつき合いのある友だちのところだった。自由民主党安倍晋三首相は、友だちをとりたてて優遇したのだと見なされるのをたいへんに嫌って拒んでいるようだ。そこから、はじめは一ヶ所だけにかぎって特区にしていたのを、全国にまで広げようとする案を打ち出した。こうすることによって、友だちをとりたてて優遇したと見なされるのをかわす狙いである。

 ちょっとつじつまや段どりが合っていないのではないかな、といったように感じてしまった。というのも、そもそも友だちだからといってとりたてて優遇したのでないのであれば、特区を全国にまで広げることはいらないのではないだろうか。なぜ友だちをとりたてて優遇したのでないにもかかわらず、特区を全国にまで広げようとしているのか。それはいったい何のためにしようとしているものなのかがいぶかしい。かえって、友だちを優遇していたことを認めるふうな、逆効果になりはしないだろうか。

 あくまでも、友だちをとりたてて優遇したのではないが、世間の一部や野党がいろいろうるさいことを言ってくるから、しぶしぶ新しい手を打つことにしたのかもしれない。しかしそれだと、世間の一部や野党がいろいろうるさいことを言ってきたことで、それに屈服したことになりはしないだろうか。屈服したのではなくて、たんに折り合いをつけただけなのかもしれないけど、そこは折れないほうがよかったのではないかという気もする。もし友だちをとりたてて優遇していないのであれば、ぶれたり折れたりしないようにもできたのではないだろうか。

 あとから首相が打ち出した、特区を(一ヶ所ではなく)全国にまで広げる手は、もしそうする必要があるのであれば、はじめからそうするのがふさわしいものだと言える。首相が新しい案を出したことで、今度は、とってつけたような泥縄式でやろうとしているのではないか、何ていう新たな見なしかたもできてしまう。

 はじめは一ヶ所にかぎって特区を認めて、規制をとり外そうとしていた。しかしそれが友だちを優遇していると見なされたことから、特区を全国にまで広げる案を打ち出す。あらためてこの案を打ち出したところで、友だちを優遇したとする見かたが払しょくされるわけではない。なので、友だちを優遇したとする見かたを払しょくしたいのであれば、首相が新たに打ち出した案はさしたる意味がないような気がする。疑惑をかわせたことにはちょっとなってはいない。かろうじて疑惑を薄めることはできるかもしれないが。新しい案によって、公平に近づいただろう、と首相はしたいのかもしれないけど、疑惑の出発点の核のところは消せていないので、そこはとくに変わっていなさそうだ。

 はじめの一ヶ所ではなくて、全国にまで特区を広げる案は、それがうまくゆくのであればよい。ただ、市場による調整の仕組みがうまくはたらくとはかぎらないし、失敗するおそれがある。そこは万能ではないだろうから、心配な点である。

 岩盤規制を打ち壊す、なんていうのは勇ましいかけ声であり、なかにはそれが有効なものもあるのかもしれない。しかし、規制がかかっていることに意味があるものもありえる。必ずしも既得権益として悪と見なせるものばかりとはかぎらない。自生的秩序とか具体的秩序といったものがありえるので、それを外から一方的にぶち壊そうとしてしまうのも、一概によいものとはいえないおそれもあるだろう。

推測によるとはいっても、的はずれなものもありえるし、当たっているものもありえそうだ

 推測にもとづくものが多い話である。なので、それについて何かコメントするには値しない。政治スキャンダルの当事者の一人とされる政治家の人が、そのようなことを記者に述べた。これは、文部科学省事務次官をいぜん務めていた人の記者会見を受けての発言である。

 推測によるところが多い話だから、何かコメントするには値しないというのは、ちょっとどうなのだろうという気がした。推測によるとはいっても、いっさい何の関わりもない部外者によるあてずっぽうなものとはわけがちがう。官僚組織のなかで、しかるべき地位にいて、じっさいのことに長く携わっていたわけであり、それなりの情報の質と量を備えていると見なせる。なので、推測であるからといって切って捨ててしまうことはできづらい。

 娯楽ではあるけど、ミステリーなんかでは、探偵の役を担う人が、確たる証拠が無いなかで、自分の推測の力をもってしてものごとの真相を突き止めてゆく。いくつかの足跡が残されているのをふまえて、そのたどられたであろう道ゆきをさぐる。これは、物語と言ってしまえばそのようにも言えるものである。そのうえで、柔軟な大衆的知性(インテリジェンス)をもちいて、いくつかの残された足跡という情報(インフォメーション)から、試みとして一つの小さな物語を導くことはあってもよいものだろう。

 でまかせの物語を導いてしまってはよくないところがあるだろう。とはいえ、大きな物語といったものが通用しづらい現状もある。いまの世の中は情報過密社会なので、何が本当かがわかりづらくなってはいるが、そうであるのなら、小さな物語に自分なりに賭けてみることがあってもよいだろう。そのさい、自分がよしとするものがあるとして、そこへの認識がまちがっていることはありえる。そのまちがいのおそれはあるが、あえて多少のまちがいをいとわないで一つの立場を選びとることがあってもよい。

 いくつかの足跡と見なせる情報が明らかになっているとして、その足跡がほぼまちがいなくたどったであろう道をさぐる。その動きを強いて止められるものではない。そこには動機づけがはたらく。動機づけをはたらかせるなとするのは無理な話だろう。意欲と経験がかけ合わされることによって、何かが形づくられたり表出されたりする。

 明らかにこういうふうな足どりを運んだであろうと受けとれるものがあれば、そこから整合性を見いだしてつじつまを合わせて読みとるのがむしろ自然なのではないか。それを、まったく非の打ちどころのない完ぺきな根拠がないからとしていっさいを退けてしまうほうがちょっと不自然だと言えてしまいそうだ。

 いずれにせよ、罪ありと見なすか、それとも罪なしと見なすか、どちらにおいても、あるていど推定することは避けられそうにはない。そのさい、罪といっても、違法でないのであれば問題ないではないか、とする見かたもなりたつ。しかし、合法的正当性だけが正当性ではない。違法でないとしても、それは十分条件とはいえないところもあるだろう。くわえて、法の網の目をかいくぐってといったこともありえる。古代ギリシャでは、法はクモの巣であり、大きいものは巣を突き破って飛んでゆき、中くらいのものや小さいものだけが巣に引っかかる、と言われていたそうだ。

合理に重きが置かれてもよいだろうが、そこには限定と限界がある(可謬的であり、可疑的である)

 仕事ができないとして、強く責め立てられる。その責め立てかたは、しつようなものであったらしい。それで、その政治家の人のもとで働いていた秘書の人は、長くは持たなかったようである。秘書がひどい責め立てられかたをしていたのが明らかにされて、政治家の人は所属していた党を離党することになったという。

 仕事ができないのだとしても、それでひどく責め立てられてしまうと、嫌がらせであるハラスメントが関わってくることになる。そうした力関係からの嫌がらせによって、それを受ける側は小さくはない精神的外傷をこうむることがありえる。ひどいのであれば、そうかんたんに癒えない深手を負う。

 仕事ができない人において、その人自身に原因があるともできるが、必ずしもそれだけとはかぎられない。仕事ができないのを結果であるとすると、何かほかのところに原因があることもありえる。そのように複雑系によって見ることができるのではないか。何かちょっとした小さなかみ合わせが合っていないだけなのかもしれないし、また何らかのことで動機づけがうまくはたらいていないのかもしれない。賞罰(アメとムチ)のありかたがおかしいこともありえる。

 強く叱るというのも、一つの手として絶対に認められないものではないかもしれない。しかし、その強く叱る手だけしかないわけではないだろうし、その手がじっさいに有効に作用するかどうかもいぶかしい。たんに自分がその手を用いたいだけなのだとすれば、手段が自己目的化しているだけであり、撞着してしまっている。

 仕事ができるかできないかで区別されてしまうのはある程度はしかたがないところがあるかもしれないが、差別になってしまうおそれがいなめない。区別は差別にたやすく横すべりしてしまう。そうではなく、できるだけ個人が尊重されるようであるのがのぞましいだろう。人と違うようであってもよいわけで、その違いが否定されないようであればさいわいだ。

 あまりに効率性が重んじられすぎてしまうと、あたかも個人が部品のようにあつかわれかねない。そうした機械的な世界像に適合できないものは、邪魔ものであるとか役立たずであるとか見なされてしまい、ののしられたり排除されてしまう。そうした世界像においては、量が重んじられ、質がないがしろになる。量にできない質をもったものは、同一ではなく非同一さをもつ。同一をよしとするのであれば、非同一なものはのぞましくないので悪玉化されやすい。かっこうの標的になる。

 同一をよしとする世界像に当てはめがたいものを悪玉化するのではなく、できるだけ有用性を持つものとして見ることができたらよさそうである。そういったゆとりがあったほうが、関わり合いのなかで心理的な効用が高くなることがのぞめる。そうした実践をすることができれば、抑圧されてしまうことが少なくなるだろうし、解放につながることが見こめる。何か一つのありようにのみ還元されるようでないほうがよいだろう。力関係において、弱者がなるべくしいたげられないようなふうであればのぞましい。

他党を排斥するのではなく、包摂できればのぞましい(異質なものを排除しないようにできればよい)

 日本共産党にたいして、3つの負の点をあげる。公明党は、そのような内容をのせたツイートをしていた。これは、東京都議会議員選挙をふまえてのもののようである。共産党は、汚い、危険、北朝鮮、として、3K であるとしている。汚いは他党(公明党)の成果の横どりで、危険は公安警察に監視されているのをさす。北朝鮮については、その危険さを小さく見積もりすぎていることにたいする批判である。

 共産党は、公明党からのこのような負の印づけ(スティグマ)を受けて、自分で正の印づけを行っていた。共産党は、きれい、キレキレ、苦難軽減、の 3K であるとしている。ここで、公明党に負の印づけをするべく、3K でやりかえさなかったのがよいと感じた。

 共産党がきれいなのは、政党助成金などを受けとらないことから、お金についてを言っている。キレキレは、国会の内外で政権与党を厳しく追求するさまをさしている。苦難軽減は、立憲主義に立ち、国民の平和的な生存権を守ってゆこうとしている。

 公明党共産党にたいして投げかけた 3K のなかで、北朝鮮についてのものがある。これについては、共産党のありかたがそれほど大きく的はずれなものとはいえないのではないかという気もする。北朝鮮の危険さを見るさいには、どこに参照点を置くのかのちがいがある。それを置くのについて、位置が高いのが安全で、低いのが危険だとすることができる。低いところに置いて、北朝鮮をすごく危険だと見なすにしても、そこには欠点もある。大げさに危険を煽りすぎてしまうおそれがあるのはいなめない。

 大げさに危険を煽りすぎてしまうと、平時の規範が損なわれてしまい、実存による政治の領域を呼びこむ。これは必ずしものぞましいありかたとは言えそうにない。いたずらに、国民のみなを恐怖ですくみ上がらせてしまう。そうではなくて、落ち着いて状況をふまえることもいるだろう。恐怖と(具体的な対象をもたない)不安を混ぜ合わせてしまうのも問題である。

 プロゴルファーのタイガー・ウッズは、試合において、競争相手のことを引き下げようとしないのだという。そうではなくて、逆に競争相手がよい結果を出すことを願う。そうすると自分が勝てなくなるおそれがあるが、そのおそれはとりあえず置いておく。そうすると、競争相手を否定して引き下げようとしないぶん、自分の意欲を高く維持しやすい。競争相手もよい結果を出せばよいし、自分もまたよい結果が出ればよい。おたがいにうまくゆけばよいのである。

 公明党は、共産党を否定して引き下げようとするのではなく、逆にタイガー・ウッズの方式でやっていってもよいのではないだろうか。そうすれば、自分の意欲も高く維持することができるようになることがのぞめる。つり合いの点でいうと、共産党には悪い面もよい面もあるだろうから、悪い面だけを言うのではなく、ついでによい面も言ってあげれば、両論併記になるので、報道機関が報道するさいのお手本になるのではないか。

官邸の最高レベルも間違いをしでかすことはありえる(人間なので)

 官邸の最高レベルが言っている。そうであるのだから、しかるべく空気を読んで忖度せよといったあんばいだ。こうした文句が、行政の文書において使われたという。あくまでも官邸側はそうした文書は無いとして否定しているようだ。文書が有るのか無いのかとなると、水かけ論になってしまわざるをえない。言ったことを文書に書きとめたとして、言ったこと自体はすでに消失してしまっている。

 官邸の最高レベルが言っていることについても、大きくいえば二つのものがありえそうである。一つは正しいことであり、もう一つは間違っていることである。正しいことであれば、みなが納得しやすいのでそれほど問題はない。やっかいなのは、間違っていることである。間違っていることだとしても、それは間違っているのではないかと、気やすく指摘できるようであればよい。しかしそうでないのならやっかいさが増す。下の者によけいな気苦労をかけることになる。

 官邸の最高レベルが言っていることなのだから、有無をいわずにただちに命じられたことに従うのがのぞましい。そうした意見もありえるが、しかしこれには個人的にはちょっとうなずきがたい。ここには人を動かす政治がからんでくる。人を動かすさいに、一番のぞましいのは、動かされる人が納得できるように、適した説明がなされることである。きちんと説明されて、納得できて、それで動くことになる。のちの帰結にまで気が配られていないとならない。

 あまりのぞましくないやりかたとして、力で動かしてしまうのがある。これは、権威をふりかざしたり、強制してしまったりするものである。官邸の最高レベルがこのような力を用いたとしても、広くいえば民主主義の範ちゅうに収まることはありえる。しかしこれは民主主義とはいっても、かなり専制主義に近いものとなるおそれがいなめない。ものによってはそうしたおそれを指摘することができる。

 民主主義といっても、力づくの専制主義に近いものもありえるので、そうしたありかたで人を動かしてしまうのだと、正当性が問われるところが生じてきても、ある点ではしかたがない。民主主義で選ばれたからだとか、官邸の最高レベルが言っていることだからといったものは、論拠として完全なものとは言いがたい。そこには不完全さがあるので、反論を受け入れることがいるだろう。もし反論をまったく拒んでしまうのであれば、反発を受けることにつながる。

 民主主義とは下克上でもあるから、上へ向けて下が反発をすることは当然ありえる。この反発は個人による自然的権利の行使といえよう。くわえて、そもそも上と下の隔たりがはじめからできるだけ少ないほうがよい面もあるので、隔たりが大きいのをもってしてよしとすることはできづらい。一つの立場として、隔たりが大きいのをもってしてよしとすることもありえるが、それだと下の意見を押さえつけることになるおそれがある。下からの意見は、上へ聞き届けられることが十分にあってしかるべきところがあると言えるのではないか。

あるべきありかたとは別に、実在したありかたもあり、いずれにせよ不完全である

 日本は、第二次世界大戦で、敗戦をした。そのことを言ったさいに、いやそれは敗戦ではなくて終戦である、と反論する。これは、政治家である田中真紀子氏と、自由民主党安倍晋三首相とのあいだでかつて交わされたやりとりだという。第二次大戦のさい、日本はアジアを侵略したわけだが、そのことを田中氏が言うと、安倍首相はそれは侵略ではなく(植民地からの)アジアの解放をしたのだ、と反論したのだという。

 田中氏と安倍首相とのあいだで、おたがいの歴史像が明らかに異なっていることから、話がかみ合わないさまが見てとれそうだ。アジアへの侵略はとりあえず置いておくとしても、敗戦をしたことはれっきとした事実ではあるから、それを終戦であると言いくるめてしまうのはどうなのだろう。

 アジアへの侵略については、それを解放として見るさいに、演繹してしまうようだとちょっとまずいだろう。断言することはできづらい。解放として見られなくはないところがあるのだとしても、それによって強く基礎づけしてしまうと、そのように美化して仕立てあげて見てしまうことにつながる。そうではなく、そこからずれて行くようなありかたをとることもいるだろう。美化するのにそぐわない、非整合なものに焦点をあててゆくこともできる。

 たとえば従軍慰安婦の問題なんかでも、それを日本が正当化してしまうのはまずい、という意見もある。正当化というのは、よからぬことをしでかしてしまったさいに、それを中和化することである。このような、正当化とか中和することにやたら長けてしまってもしかたがない。そこには、非を認めたくないという情念がからんできてしまう。そうした情念はできるだけ相対化して、(快楽原理ではなく)なるべく現実性の原理に従うことができればよいのではないか。

 現実には、内外に多大なる被害を与えたことについての非があったことを認めざるをえないものだろう。過去にしでかした非をなかったことにしてしまい、解放であったとして是としてしまうのは正当化であり、ちょっとうなずきがたい。戦時中に、日本は大本営発表を国策でおこなった。敗北による退却を、ありのままに退却とせずに、転進(スピンアウト)と言いくるめた。侵略を進出とも言いくるめた。こうした、人の目をごまかしてあざむくようなことを、再びくり返してよいものだろうか。そうしたところから、アジアの解放とする歴史像も出てきてしまっているような気もする。

反省するのはよいことではあるけど、すごく強い悔恨の情なんかによるのでもないと、なかなか改めることができづらい(また同じ愚をくり返してしまうと自分を省みることができる)

 印象操作のような議論をふっかけられる。それについて、ついつい強い口調で反論をしてしまう。そこから、あまり生産的でない議論が国会で盛り上がっていったことはたしかだ。その点については反省をしている。自由民主党安倍晋三首相は、先の国会をふり返り、記者会見の場でこのような弁をもらした。

 この安倍首相の弁において、そもそも、印象操作のような議論とはいったいどのようなものをさしているのだろう。これは、印象操作のような議論であると、安倍首相が自分でそのような印象をもったということなのだろうか。そうした印象を自分が感じたというわけである。その印象の感じかたは、はたして正しいものなのかの点が定かではない。

 印象操作のような議論という印象を首相が抱いたとすると、その点については疑問をもつことができそうだ。たんに相手が事実を言ったのを、印象操作ではないかと感じたおそれもある。これは、何か言ったさいに、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)がはっきりとは分けがたいことに由来していそうだ。言語行為論ではそのような分けがたさが指摘されているそうである。なので、そこをあらかじめ踏まえておくことがいるだろう。

 もし印象操作のようなことを言われたとしても、それにたいして、強い口調ではなく、ふつうの口調で反論することができればよい。もっとも、つい感情的になってしまい、強い口調で反論してしまうのは、人情としては分からないでもない。人間だから、そういうことはあってもおかしくはないことである。もし方法論としてまたは言い訳としてそれをやっているのならいささか問題はありそうだけど。

 かりに議論が生産的なものにならなかったとしよう。それは結果なわけだけど、その原因について、相手が印象操作をしてきたからというのをあてはめるのはどうだろうか。それは原因になるのかといえば、やや疑問である。相手がもし印象操作のようなことを言ってきたのだとしても、それだからといって必ずしも非生産的な議論になるとは言いがたい。生産的な議論にもってゆくことは自分しだいでできるものなのではないか。自分から非生産的な議論にもっていってしまっている面も、原因としてあげられるところがあると勘ぐれる。

 生産的な議論というのは、相手が印象操作のようなことを言ってくるかそれとも言ってこないかによらず、形式にのっとって行えばよい話なのではないかという気もする。相手が印象操作のようなことを言ってきている、とこちらが決めつけさえしなければ、生産的な議論は形式としてやりようがある。逆に、相手が印象操作のようなことを不当に言ってきている、と決めつけてしまうと、それが原因となって、生産的な議論がやりづらい。

 相手が印象操作のようなことをこちらに言ってきているとすれば、相手はそれを企てている。しかしそれをうら返せば、こちらもまた、相手が印象操作のようなことを言ってきているという見なしかたを企ててしまっている。もし、相手が本当は印象操作のようなことを言う意図をもっていないのだとすれば、こちらが一方的に、相手が印象操作のようなことを言ってきているとする誤った企てをもってしまう。こちらから一方的に相手への誤解をしに行ってしまっている。相手は、印象操作のようなことを言っていないことを証明はできづらい。なので、こちらが自分で相手への誤解を解くことがいる。

 与党と野党でいうと、首相にとって野党は客体である。そして、客体である野党が印象操作をしようとしているのかどうかは、主体である首相の意味づけしだいによっているところがはなはだ大きい。そしてその意味づけは、たぶんに主観的なものとなる。主体による客体への意味づけは、一つのもん切り型をもちいた慣習による実践をふくむ。印象操作というもん切り型の言葉づかいに、もん切り型であることが示されている。もん切り型はしばしば偶像(イドラ)であり、生産的とは言いがたい。そうした実践は構造からきているので、自分のよって立つ構造を自覚することで、非生産的な議論におちいることから脱するきっかけとできるかもしれない。あまり偉そうなことを言える立場にはないが、そのようなことが言えるだろう。

 もし印象操作のようなことを相手から言われたとすると、それを結果としてとらえられる。その結果が生じた原因として、たとえば自分の地位を不当に追い落とそうとする魂胆をもっているからだ、何ていうふうに見ることもできる。このように疑ってしまうと、相手の背後に意思をもつ実体を見てしまう。このように見てしまうと、思いこみである観念が肥大して止まらなくなる。なので、できればその思いこみである観念を解くことができればさいわいだ。そうすることで、相手の背後に意思をもつ実体を見ないようにすることができ、自分が不当に地位を追い落とされようとしている、と見なすことを避けられる。

 印象操作をしてくるやつとして、記号として相手を見てしまう。そうして、その記号が固定化してしまうようになる。われわれは社会の中で、記号を食べて消費している面が大きいのだという。自分にとってのぞましくない、負の記号として相手を見てしまうと、一つの負の象徴と化す。そのようにして還元して見てしまうと、ほかの肝心な細かい部分が捨て去られてしまう。神は細部に宿るともいう。その点に気をつけることができたらよいだろう。記号によって自他に差をつけるにしても、とても細かいわずかな差にすぎないかもしれず、大きなくくりでは自他は同じようなものであるかもしれない。そのような大らかな見地に立つことはじっさいにはできづらいものではあるだろうけど。

純粋な自主憲法はありえるのか

 日本国憲法の 3つの特徴がある。この 3つを無くすことが、自主憲法につながるのだという。平和主義と国民主権基本的人権の尊重が 3つの特徴にあたるわけだけど、これは他から押しつけられたものであり、これらを無くすことが自主憲法にいたる道だといった意見である。

 3つの特徴を無くせば、自主憲法になるのだというのは、必要条件なのか、それとも十分条件なのか。もし、3つの特徴をもたないものを自主憲法であるのだとすれば、そうした内容をもつ外延(集合)には、自主憲法ではないもの(他から押しつけられたもの)も入りこんできてしまうのではないかという気がする。3つの特徴を持っていさえしなければ自主憲法に当たると言えてしまいそうだからである。

 いまの日本国憲法は、たしかに言われてみれば、純粋な自主憲法とは言いがたいものではありそうだ。しかしあらためてみると、そもそも純粋な自主憲法などといったものはありえるのだろうか。純粋な自主憲法の想定そのものが、極端にいえば架空の産物なのではあるまいか。これは現前中心主義と言ってさしつかえないものだろう。この直接な現前というのは、じっさいには純粋なものではありえず、必ず何か物的なものに媒介されざるをえない。

 自主憲法はのぞましくて、自主憲法でないものはのぞましくはない。そういうふうに言ってしまうことはできそうにない。まず、自主憲法というのをとり上げるにしても、それを範ちゅうと価値に分けることができる。自主憲法の範ちゅうの中にも、のぞましい価値をもったものもあり、またのぞましくない価値をもったものもある。そのように見てゆくことができる。これは、自主憲法ではないと見なされるものについてもまた当てはまるだろう。

 自主憲法かそうでないのかというのは、質によって分けてしまうこともできなくはないだろうが、それとは別に、量によって見なすこともできる。量によって見なすのは、程度の問題だとすることである。これによって相対化することができる。たとえわずかではあったとしても、自主憲法とされるものの中には、自主憲法ではないものが入りこむ。そうしたおそれをふまえると、厳密にいえば、自主憲法は自主憲法ではない、ということもできる。

結婚を宣言したことの是非

 結婚することを告げる。アイドルグループである AKB48 のグループの一員が、選抜総選挙の催しのなかで、そのような宣言をだしぬけに発したという。アイドルというのは恋愛が禁じられているそうで、その恋愛をもう一つ飛び越えて結婚をするということで、波紋を呼んでいる。宣言をした時と場所と機会もやや悪かったのかもしれない。

 結婚というのは一定の年齢を満たしていればその資格があるわけだから、それをする権利がある。権利は自由である。ただアイドルは一般人とは異なり、恋愛や結婚が禁じられているようである。これは、義務であり、一般人とはややちがう規範によって拘束されていることを意味しそうだ。そこで、内の規範と外の規範がぶつかり合い、葛藤が生じてくる。

 結婚すること自体はとくに悪いことではなく、むしろよいことだろう。しかし、アイドルにおいては、恋愛や結婚をしようとすることが非難される。非難されるから問題となる、といったことが言える。非難されなければとくに問題にはなりそうにない。

 アイドルは、恋愛や結婚が禁じられていて、その掟に縛られている。この掟があるのは、ほうっておくとアイドルは恋愛や結婚をしがちだからなのだろうか。だから掟で縛っておく。そうはいっても、何かが禁じられれば、そこに二重運動がおきてしまう。禁止と侵犯や、否定と回帰といったふうになる。アイドルにとって恋愛や結婚は、呪われた部分にあたる。呪われた部分においては、アイドルとしてそれまでに蓄えてきた過剰な活力が、蕩尽され消尽されることになる。

 恋愛や結婚を禁じる掟によって、(アイドルとファンのあいだの)社会状態が保たれる。しかしそうした状態は、片いっぽうが契約を破ることで崩れることがありえる。そうすると自然状態となる。この自然状態においては、片一方ともう一方とのあいだに意思疎通や交流が成り立ちづらい。アイドルとファンの間がらであれば意思疎通や交流は成り立ちやすいが、そうでなければ接点がもちづらくなる。そうしたことがありえそうだ。

 掟を背負っているのは、共同体主義からすると、負荷がかかっていると見なせそうである。自由主義からすれば、逆に負荷なき自己がありえる。そうしたことが言えそうだが、そもそも、恋愛や結婚を禁じる掟を破ったとして、はたしてそれがどれくらいの罪なのだろうか(または罪ではないのか)。そこはファンの人とそうでない人とでは思い入れが天と地ほどもちがうかもしれないから、はっきりとは言いがたい。

 一般論としていえば、ある集団の中においてはみんなが同じ方向を向くのではなく、別な方を向く人も出てくるだろう。みんなとはちがった方へ向く誘因がはたらく。そこは、建て前と本音だとか、義理と人情みたいなのがからんでくるところだろう。いずれにせよ、恋愛や結婚を禁じる掟というのは、基本としては他律によっているものだといえそうだ。

 仏教でいわれる空観をあてはめると、アイドルとは空だろう。とはいえ、そのように空とはっきりと言い切ってしまうと味気ないところがある。いちおうそういった役割はありえるから、仮観(または中観)をあてはめることもできる。そのさい、役割をもつ者として仕立てあげられるところがあるのはいなめない。その点については、同一さを保ちつづけるのがのぞましいとすることもできるが、そうではなくて揺らいでいってしまうのもまた人間性の一面である。