純粋な自主憲法はありえるのか

 日本国憲法の 3つの特徴がある。この 3つを無くすことが、自主憲法につながるのだという。平和主義と国民主権基本的人権の尊重が 3つの特徴にあたるわけだけど、これは他から押しつけられたものであり、これらを無くすことが自主憲法にいたる道だといった意見である。

 3つの特徴を無くせば、自主憲法になるのだというのは、必要条件なのか、それとも十分条件なのか。もし、3つの特徴をもたないものを自主憲法であるのだとすれば、そうした内容をもつ外延(集合)には、自主憲法ではないもの(他から押しつけられたもの)も入りこんできてしまうのではないかという気がする。3つの特徴を持っていさえしなければ自主憲法に当たると言えてしまいそうだからである。

 いまの日本国憲法は、たしかに言われてみれば、純粋な自主憲法とは言いがたいものではありそうだ。しかしあらためてみると、そもそも純粋な自主憲法などといったものはありえるのだろうか。純粋な自主憲法の想定そのものが、極端にいえば架空の産物なのではあるまいか。これは現前中心主義と言ってさしつかえないものだろう。この直接な現前というのは、じっさいには純粋なものではありえず、必ず何か物的なものに媒介されざるをえない。

 自主憲法はのぞましくて、自主憲法でないものはのぞましくはない。そういうふうに言ってしまうことはできそうにない。まず、自主憲法というのをとり上げるにしても、それを範ちゅうと価値に分けることができる。自主憲法の範ちゅうの中にも、のぞましい価値をもったものもあり、またのぞましくない価値をもったものもある。そのように見てゆくことができる。これは、自主憲法ではないと見なされるものについてもまた当てはまるだろう。

 自主憲法かそうでないのかというのは、質によって分けてしまうこともできなくはないだろうが、それとは別に、量によって見なすこともできる。量によって見なすのは、程度の問題だとすることである。これによって相対化することができる。たとえわずかではあったとしても、自主憲法とされるものの中には、自主憲法ではないものが入りこむ。そうしたおそれをふまえると、厳密にいえば、自主憲法は自主憲法ではない、ということもできる。