日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれないのはなぜなのか―日本の政治の創造性のなさ

 日本は自分たちでワクチンをつくれない。それは日本が軍事研究を禁じているせいだ。日本学術会議がそれを禁じているようでは、日本は自分たちでワクチンをすぐにつくれるものではない。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 テレビ番組の出演者が言うように、日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれないのは、軍事研究を禁じているためであり、日本学術会議のせいなのだろうか。

 テレビ番組の出演者が言っていることとはちがい、ワクチンを自分たちですぐにつくれないことのもとになっているのをちがう点にあるのだと見なしたい。その点とは日本の政治の創造性のなさだ。創造性のなさは、天皇制からくる人命の軽視と、自己責任を強いる新自由主義(neoliberalism)が関わっている。新自由主義は、日本の国の財政の苦しさにもよる。

 たしかに、テレビ番組の出演者が言うように、日本では軍事研究が禁じられてきたのがあり、日本学術会議がそうしたあり方をとってきたのはあるかもしれない。そのことと、日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれないのとは、じかに関わりがあることなのかどうかはうたがわしい。

 どのようにしたら日本が自分たちでワクチンをすぐにつくれるようになるのかがある。自分たちですぐにワクチンをつくるようにするための必要となる条件があり、その条件がそろいさえすれば、すぐにワクチンをつくれるのがある。

 日本が軍事研究を認めるようにすることは、自分たちでワクチンをすぐにつくれるようになるための十分条件とは言えそうにない。軍事研究を認めるようにするかどうかは、それがあるときでないとできないといった必要十分条件とはいえそうにないし、それがあればよいといった十分条件とも言えそうにない。必要条件のなかの一つに当たるものだとも言えそうにない。

 自分たちでワクチンをすぐにつくるために必要となる条件において、創造性が関わってくる。創造性には動機づけ(motivation)と技術(skill)と資源(resource)の三つの点がある。

 そもそも日本の政治にはワクチンを自分たちでつくろうとする動機づけがきわめて低かった。その必要性を認識していなかった。動機づけが低いために創造性が低かったのである。

 ワクチンを自分たちでつくることの動機づけが低いのは、天皇制からくる人命の軽視もかかわる。天皇制では国民は臣民(しんみん)と見なされて、天皇のための手段や道具にすぎないものとされる。いざとなったら天皇のために国民の命を捨てさせる。そのあり方がいまにおいてもとられていて、国民の生命が個人として十分に尊重されていない。

 日本の国の財政はきわめて苦しいのがあり、ぼう大な赤字をかかえている。首が回らなくなっているのだ。国民の一人ひとりの生命を救うために自分たちでワクチンをつくろうとすることに国のもつ資源である税金をかけたり、そこに政治の労力をかけたりすることが行なわれなかった。

 かぎりある政治の資源をなにに使うかにおいて、ワクチンを自分たちでつくることはその上位に来るものではなかった。それは国の政治で権力をもつ政治家が、個人としての国民の一人ひとりの生命の質に関心を思っていないからである。天皇制に見られるように、いざとなったら国のために国民は命を捨てるべきだとしているのである。あくまでも日本の国が大切なのであり、個人としての国民が大切なのではない。

 日本の国の政治は創造性が落ちてしまっているのがあり、それは日本学術会議のせいとは言えないだろう。もとからそれほど高くはない創造性が、ますます落ちてしまっている。劣化していて、退廃(decadence)がおきている。

 歴史の点から見てみられるとすれば、日本の国がしっかりと過去の歴史をかえりみて、日本の国の負の歴史をしっかりと見て行こうとしていないのがある。日本の国の負の歴史をしっかりと見て行こうとしないかぎり、日本の政治の創造性は高まらないのではないだろうか。天皇制において国民の生命を軽視することが引きつづいてしまう。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『十三歳からの教育勅語 国民に何をもたらしたのか』岩本努 漫画 たけしまさよ 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦