日本の国のことを批判したら日本人ではなくなってしまうのか―何々であるから何々であるべきをみちびく自然主義の誤びゅうには気をつけたい

 先生は日本人ですか。作家の村上春樹氏にたいして、ツイッターのツイートではそう言われていた。

 村上春樹氏は雑誌社のインタビューの中で日本の政治のあり方を批判していた。新型コロナウイルス(COVID-19)にたいする日本の国の政治の対応はよいものではなかった。最悪だった。日本の国の政治家は国民にたいしてしっかりとした説明責任(accountability)を果たしていない。国の政治家は自分の言葉をもっていず、自分の言葉で語りかけようとはしない。

 日本人であれば日本の国のことを批判するべきではないといったことで、日本の国の政治について批判を投げかけた村上春樹氏は日本人なのかをあやしむ。日本人にあるまじきことだと見なす。そこであやしまれているように、村上春樹氏は日本人ではないことになってしまうのだろうか。

 村上春樹氏が日本人であるかどうかをあやしみ、日本人ではないのではないかと見なすのは、自然主義の誤びゅうに当たることだろう。何々である(is)から何々であるべき(ought)をみちびく誤りが自然主義の誤びゅうだ。

 日本人であるのなら日本の国のことを批判するべきではないとするのは、何々であるから何々であるべきを導いている。日本人ではないそれ以外の国の人だから日本の国のことを批判するのにちがいないと見なすこともまた何々であるから何々であるべきを導いている。そこからそれらは誤びゅうであることがうかがえる。

 アドルフ・ヒトラーによるナチス・ドイツユダヤ人を虐殺した。そのさいにとられたのが自然主義の誤びゅうだ。ユダヤ人であるのならそれが悪いとか駄目だとして、何々であるから何々であるべきをみちびいた。それによって多くのユダヤ人の人たちが殺されることにつながった。

 日本で関東大震災がおきたときに、日本の中にいる朝鮮の人たちが暴動をおこすと言われた。そのデマが言われたことで多くの朝鮮の人たちが殺された。そこで見られたのが自然主義の誤びゅうである。朝鮮の人であるのなら暴動をおこすとされたのがあり、何々であるから何々であるべきがみちびかれた。朝鮮の人たちをふくめて、日本人の中にも誤って朝鮮の人だと見なされた人が殺されることになった。そこに見られたのは朝鮮の人はまちがいなく暴動をおこすとしたおしはかりの誤りと、どの人が朝鮮の人かのおしはかりの部分的な誤りだ。

 日本人であるのならすべての人が日本の国に批判を行なわない。すべての人が日本の国のことをただたんに愛する。そのさいの愛することは、かならずしも日本の国によくはたらくとは言えそうにない。愛にはうらはらなところがあるから、そこには両価性(ambivalence)があり、順機能(function)だけではなくて逆機能(dysfunction)もまたある。

 ただたんに順機能のところだけを見て、そこにある逆機能のところをとり落としているのは、国への愛とはいってもごく浅いものだろう。国への愛といったさいに、よいところだけではなくて悪いところがいろいろにあるのをしっかりと見て行く。順機能だけではなくて逆機能をくみ入れて行く。逆機能によって国民をふくめて内外に大きな不幸をもたらした過去の負の歴史をくみ入れるようにして行く。

 日本人であったとしても日本の国のことを批判する。日本人であるからこそ日本の国のことを批判する。それも一つのあり方であり、それは日本の国への愛のあらわれの形だとも言えるものだろう。愛することは関心をもつことであり、愛さないことは関心をもたずに無関心であることだといえるとすると、日本の国に批判を行なうのは日本の国に関心をもたずに無関心であることではない。愛することと反対に当たることではないだろう。

 ひと口に日本人といってもそこにはあいまいさがある。さまざまにちがいがある日本人からなる日本の国にもまた同じようにあいまいさがある。ことわざでは十人十色(several men,several minds)と言われるのがあるから、それぞれにちがいがある個人がそれぞれにちがいがあるままでできるだけよしとされることがのぞましい。

 人それぞれによってさまざまな遠近法(perspective)や枠組み(framework)をもつ。たとえ同じ日本人であったとしても人どうしで枠組みが合うこともあれば合わないこともある。すべての日本人が少しのずれも含まないまったく同じ枠組みをもっているのではない。もしもすべての日本人が少しのずれも含まないまったく同じ枠組みをもっていたらむしろ危ない。そこには決定的に多様性が欠けているから、いざとなったらみんながいっせいに全滅することになる。純粋なものはもろさやぜい弱さ(vulnerability)をかかえる。

 それぞれの人によってそれぞれにちがいがあることをくみ入れられるとすると、そこにはあいまいさがあるのがあり、はっきりとした愛による愛国であるよりは、あいまいさによる曖国とできるのがある。日本と日本ではないものや日本人と日本人ではないものははっきりとは分けづらく、そこには気ままさによる恣意(しい)性や分類線の揺らぎがある。ずっと同じあり方でとどまりつづけるのではなくて、時間が流れることによって生成変化して行く。不安定さをもつ。

 国や国民は触知可能(tangible)なものではないから人それぞれによって頭の中で思いえがくものがちがう。はっきりした形をもった同一性によるものであるよりは、それぞれの人によって差異性によるずれがおきる。

 意識だけではなくてその奥の深くにある無意識までをくみ入れられるとすると、ほんとうに日本の国のことを愛しているとはっきりと言い切れる人はあまりいないだろう。無意識がどうなのかは意識によってはうかがい知ることができづらい。意識とはちがって無意識においては日本の国のことをほんとうは憎んでいて嫌っているかもしれない。いっけんすると意識においては日本の国のことを嫌っているようでいても、無意識においては日本の国のことをとても好んでいて愛していることがありえる。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『ヘンでいい。 「心の病」の患者学』斎藤学(さとる) 栗原誠子 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『失敗の愛国心(よりみちパン!セ)』鈴木邦男現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)