政治においてなかなか片づかない問題と、それをしつこくとり上げつづけること

 政治において国の国会でいつまでも同じことを野党の議員がとり上げつづける。野党の議員が同じことにこだわりつづけてとり上げつづけることはふさわしいことなのだろうか。それとも次のことにさっさと移っていったほうがよいのだろうか。

 そのことを学者の篠原資明(しのはらもとあき)氏による交通論の点から見てみられるとすると、憑在(ひょうざい)論で見てみられる。かつてのできごとがいまにおいて憑在している。存在論では有ると無いの有り無しによる。有か無かだ。憑在論では時間におけるいまとかつてのいまかつて間だ。時間としては過去のことであったとしても、それだからといって完全に過去のものとして過ぎ去ってしまったのではない。過去のことであったとしてもそれがいまにおいてもいぜんとして漂いつづけている。

 与党である自由民主党は集団としていろいろな不祥事を抱えつづけているが、それらはきちんと片づけられていなくてうやむやなままにされていることが多い。それによっていまにおいても憑在しつづけることになる。あまりにも不祥事となるものの数が多すぎて、その一つひとつをとり上げるいとまがない。うみが堆積している。うみが外に吐き出されていない。

 国会でいつまでも同じことを野党の議員がしつこくとり上げつづけるのは、遮へい物であるフタのおおい(cover)が穴にかぶされているのをとり払おうとすることだ。それにたいして与党である自民党は何とか穴にフタでおおいをしておきたい。目かくしをしておきたい。人の目につかないのであれば風化されやすい。それらのあいだのせめぎ合いになる。

 与党は穴にフタのおおいをしておきたいのがあり、穴にフタがかぶされているものは数多いが、そうしてあるからといって穴がふさがったわけではない。いぜんとして穴は空きつづけているのがあり、憑在しつづけている。フタのおおいをとり払うことをしさえすれば穴が空いていることがあらわになる。

 憑在しつづけている中で穴にフタのおおいをすることは忘却することに当たる。それを想起することがかつてのことをいまにおいてとり上げることに当たるだろう。想起するようにして忘却にあらがう。

 忘却がうながされてしまいやすいのが前を向く前望(prospective)のあり方だ。それにあらがい想起しようとするのがうしろを向く後望(retrospective)のあり方だ。前望することだけではなくて後望することがいることがあり、後望によって忘却を改めて想起して行く。穴にフタのおおいがされているのをとり払う。それで穴が空いているのを見つけて行く。憑在していることを認めて行く。そうすることによって前に進むことのきっかけにつながることがある。

 うしろをふり返る反省や後望が行なわれずにただたんに前に向かって進んで行くのだと、まちがった方向に向かって進んでいってしまうことがおきてくる。進んで行く方向性が大きく狂う。それを少しでも改めるためには憑在を認めるようにしてそれをすくい上げることがあると益になることが見こめる。

 穴が空いているところに目を向けることは呪われた部分に目を向けることにつながる。呪われた部分から目をそむけて忘却するのではなくて、そこに目を向けて想起して行く。とり上げるようにしてすくい上げて行く。いまとかつてのあいだで憑在しつづけている呪われた部分に目を向けることがあったほうが、政治の権力による虚偽意識が大きくなることによって現実から大きく隔たってしまうことを防ぎやすい。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司