日本学術会議の問題を、形式論と実質論と、事前と事後に分けて見てみたい―政権は事前の形式論が欠けている

 説明できることとできないことがある。説明できないことも中にはあるのだから、すべてのことについてを説明することはできない。自由民主党菅義偉首相はテレビ番組の中でそうしたことを言っていた。

 日本学術会議の人選で政権はこれまでの慣習を破るようなことをやったが(安倍晋三前首相のときから破りはじめた)、それは首相がテレビ番組の中で言うように説明できないことにあたるのだろうか。だから説明をしなくてもよいのだろうか。

 そもそも政権が慣習を破ったことがどういうことなのかについてを、形式論と実質論と、事前と事後に分けて見てみたい。

 なぜ政権がなしたことについて批判が行なわれているのかといえば、政権が形式論をないがしろにしてそれが欠けた形でじかに実質論をとっているからだろう。形式論をないがしろにしてじかに実質論をとるのは、実質の正しさそのものをとろうとするものであり、形式が欠けているぶんだけ弱くなりがちだ。形式による支えがない。

 じかに実質の正しさをとろうとするのではなくて、いっけんすると遠まわりになってしまうのはあるが、形式論によって決められた手つづきをしっかりととるようにしたほうが、形式による裏打ちをとることができるので強くなりやすい。形式の支えをのぞめる。

 いきなり実質の正しさをとろうとすると、いっけんするとてっとり早いようではあるが、かえって遠まわりになることがある。何が正しいことなのかは客観にはわからないことだからだ。それはわかりづらいことなので、いっけんすると遠まわりに思えるのはあるが形式の手つづきで決められたことを守ったほうが相対的な正しさをとりやすい。形式と実質は相関しているものであり、形式がしっかりととれていれば相対的な実質の正しさを得やすく、形式が欠けていると実質もまた損ないやすい。

 いきなりじかに実質の正しさをとることがもしも正しいことになるとすれば、法学者のカール・シュミット氏が言ったとされる決断主義くらいだろう。平時ではなくて危機や混乱のときには主権者(政治家)の思いきった決断がいるのだとする。それがいかなるものであったとしても決断することに値うちがある。現実の政治に見られるまどろっこしい調整や妥協ではなく大胆な決断をすることこそが政治だ。味方と敵とのあいだに分断線を引く。この決断主義ははなはだしく危ないところがあり、ナチス・ドイツが独裁主義や全体主義を行なうことに悪用された。

 政権は形式の手つづきのところをすっ飛ばして、じかに実質の正しさをとろうとしているので、形式の裏打ちを欠いていて、そのことでいろいろな批判が投げかけられることになっている。これは政権が自分たちでまねいたことだが、それをあたかも他のもの(日本学術会議など)が悪いのだとして悪いことをなすりつけてしまっている。悪いことのもとは政権にあるのだからそれを引き受けなければならない。

 かりに日本学術会議のあり方が悪いのだとしても、それはあくまでも事後にそれをとり上げるのがふさわしいものだろう。それをとり上げることができるのは、時点としては事後のことであり、そのまえに事前として形式による手つづきで決められたことをきちんと踏んでいなければならない。政権は事前において形式の手つづきを踏んでいないですっ飛ばしていて、それによってそこについて批判の声が投げかけられている。

 どのような段どりの手順を踏むことがふさわしかったのかといえば、まず政権は事前において形式の手つづきで決められたことをしっかりと守るようにするべきだった。それが守れたうえで、事後において日本学術会議のあり方にもしも悪いところやまずいところが客観としてあるのだと言えるのであればそれをとり上げるようにすることはとくに問題となることではなかった。

 これの次にはこれをやるといった踏むべき段どりの流れを政権は踏めていなくて、段どりの流れがめちゃめちゃになっていて、事前と事後の切り分けができていない。事前についてのことを事後のことを持ち出すことによってごまかそうとしている。段どりの流れがめちゃめちゃで、事前と事後についてをしっかりと切り分けられていないために、論理学や修辞学でいわれるくん製にしんのようなごまかしが行なわれている。

 事前の次に事後を行なうことがいり、政権は事前のことができていないで批判の声が投げかけられているので、事前のことについてを見て行くようにすることがいり、事後のことは後まわしだ。事前のことについてをとり上げることが、修辞学でいわれる先決問題要求となることだ。その先決問題要求が片づいてから事後についてをとり上げるようにすることがいるが、それが片づいていないのにもかかわらず政権は事後のことを持ち出している。先決問題要求である事前のことについてが放ったらかしになってしまっていて、政権の立証や挙証の責任(説明責任)が果たされていない。

 形式論がとれていなくて実質論だけによっていることによって、建て物でいうと土台が軟弱でゆるゆるなところに大きな建て物を建てようとしているのが政権であり、そのために耐震強度がまったくない。ちょっとつついただけで崩れてしまう。それを権力のごう慢さ(hubris)で無理やりに乗り切ろうとしているのではないだろうか。

 もしも何かを改めようとするのであれば、それにはそれなりの形式論を踏むことがいり、そうしないと必要な耐震強度を得られない。地盤が軟弱でゆるゆるなのであれば、そこに大きな建て物をいっきょに建てようとするのではなくて、せめてそろそろと小刻みに歩みを進めて行くことがいる。むぼうな建て物の建て方をするのであれば、建て物が崩れ落ちていろいろな被害が大きく出ることがおきるおそれがあり、その応報(むくい)の責任は(政権が自分たちでまねいたことなので)政権にあるだろう。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『いまを生きるための思想キーワード』仲正昌樹(なかまさまさき)