日本学術会議についてをどうするのかと、枠組み(立ち場)どうしのずれ―ずれがきちんととり上げられていなくてあたかもずれが無いかのようにされてしまっている

 日本学術会議の人選には色々とおかしさがある。与党である自由民主党菅義偉首相はそのおかしさを言ったという。いろいろにおかしいところがあるから、会の人選やあり方を変えることがいる。変えることが正当だ。そういうことだろう。

 たしかに、会のあり方が完ぺきに正しいとは言い切れないのはあるかもしれない。合理性に限界をもつ人間のやることなのだから、何ごとも叩けば少なくてもほんの少しくらいはほこりは出るものかもしれない。非の打ちどころがないくらいにあり方が完ぺきに正しいとはいえないにしても、いろいろにおかしいところがあると(あくまでも菅首相から見て)いえることから、会のあり方を変えることが正しいことになるのだろうか。

 一か〇かや白か黒かの二分法をもち出せるとすると、菅首相がとっている立ち場は、会のあり方を変えるのが正しいとする二分法による仮説だ。二分法におちいっていることによって、一方の立ち場だけが絶対に正しくて、他方の立ち場はまちがっているとしてしまう。どちらかの仮説だけが絶対に正しくて、もう一方の仮説は絶対にまちがっているとするのは、単純すぎる分け方だ。とりわけ政治の権力による仮説をあたかも最終の結論のごとくに見なすのにはまちがいの危険性がある。

 二つの枠組みどうしが対立し合っているとして、どちらの枠組みがはたして正しいと言えるのかを見て行く。そのさいに菅首相がとっているのは、片一方の枠組みだけが正しいとするものだ。もう一方の枠組みをとり落としてしまっている。菅首相がとっていないもう一方の枠組みのほうが正しいのではないかとの見かたを切り捨てている。

 会の人選やあり方を変えることが正しいとする菅首相による枠組みは、それを絶対に正しいものだとして基礎づけたりしたて上げたりすることはできづらい。それとともに、菅首相がとっている枠組みと対立するもう一つの枠組みについてを絶対にまちがっているものだとして完全に基礎づけたりしたて上げたりすることもまたできづらい。

 もしも枠組みどうしがお互いに合っているのであれば、たとえば会の人選やあり方を変えるのなら変えることでお互いが一致していることになる。変えることでお互いに枠組みが一致しているさいに、ではどのようにあり方を具体として変えて行こうかを探って行ける。どのようにあり方を変えたのなら、これまでよりもいっそうよりよいあり方に改まるのかや、よりよいあり方により最適化されることになるのかを探って行く。逆により悪くなってしまっては意味がないからそうなることを防ぐ。

 お互いの枠組みどうしが合っているのではなくてずれているのであれば、枠組みどうしのあいだを見ることがいる。あいだを見ることがいるのは、枠組みどうしがお互いに合っていないためだ。合っていないでずれているのだから、あたかも合っているかのように見なすのはおかしいことだろう。合っていないでずれていることをとり上げるようにして、そのあいだを見て行く。どちらの枠組みもまちがっているおそれがあるし、いっぽうの枠組みが正しいとするのだとしても、ほんとうはそれと対立し合う他方の枠組みのほうが正しいおそれをくみ入れないとならない。

 菅首相がやっていることは、枠組みどうしのずれがあり、合っていないのにもかかわらず、それを否定してしまっている。あたかも枠組みどうしが合っているかのようにしてしまっていて、会の人選やあり方を変えることありきで無理やりに力ずくでものごとをおし進めようとしている。それありきでやってしまうと、枠組みどうしが合っていなくてずれていることがとり落とされる。

 西洋の弁証法では、正と反と合があるが、正つまり合とするのは近道を行くことだ。たいてい政治の権力が何か悪いこと(違法なことなど)や失敗をしでかすさいにはこうした近道を行くことが行なわれやすい。効率はよいが適正さが欠けている。そこを改めるようにして適正さをきちんととるようにして行く。近道ではなくて逆に遠まわりを行く。

 正つまり合と近道を行こうとするのではなくて、正と反の対立のあいだのところのずれを十分にとり上げて行く。正つまり合の近道を政治の権力にかんたんにはさせないようにする制度の仕組みが法治主義や法の支配や立憲主義(憲法主義)や自由主義(liberalism)だが、これらが損なわれてしまっている。遠まわりをするのはうとましいとかめんどうくさいとか邪魔くさいとされてしまっていて、近道を行くことがよしとされてしまっている。正つまり合の近道を行くことがおきやすくなっている。効率はよいものの適正さが欠けやすい。ことわざでは急がば回れと言われている。

 枠組みどうしが合っていなくてずれているお互いのあいだのところをすくい上げるようにして、そのあいだのところを見て行く。あたかも枠組みどうしが合っているかのように見せかけてはならない。そうしないと緊張(tension)が和らいでおさまることにはなりづらく、緊張がたまりつづけることになりかねない。争点が解消されることにはなりづらい。

 何をなすべきなのかといえば、政治の時の権力が自分たちの仮説を絶対視して力づくで無理やりに強引に自分たちがやろうとすることをおし進めることだとは言えそうにない。こうするべきだと政権が見なすことを絶対に正しい最終の結論とするのではなくて、それを相対化するようにして、対立し合っていてずれている枠組みどうしの緊張を和らげて争点を解消することを目ざす。それを乱暴にではなくできるだけていねいにやって行くことがのぞまれる。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『反論が苦手な人の議論トレーニング』吉岡友治 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『考える技術』大前研一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』木村草太(そうた)