五輪をやめることはかんたんなことなのか―何がむずかしいことなのか

 やめることはかんたんだ。五輪をひらくことはそれとはちがってとり組む値うちがある。与党である自由民主党菅義偉首相はそうしたことを言っていた。

 首相がいっているように、五輪をやめることはかんたんなことなのだろうか。かんたんなことではないのが五輪をひらくことであり、それにとり組むことには値うちがあるのだろうか。

 かんたんではなくてむずかしいことだからといって、それにとり組むことに値うちがあるとはかぎらないだろう。むずかしいことだとはいっても、むぼうなことをやるのであれば、害や損がおきてくる。

 賭けごとをやるさいに、たとえ大金をもうけることがむずかしいからといって、自分が持っているすべてのお金を賭けに投じることは無茶でありむぼうである。合理の点からすれば、賭けごとで大金がもうかる見こみはほぼない。宝くじで一等が当たる確率はきわめて低い。

 賭けごとにおいては、賭けごとをやるのではなくてやらないほうがかんたんなことであり、かつ合理性があるのである。もっとも、賭けごとが好きでやりたい人がそれをやるのは、たとえ合理性に欠けているのだとしても、その人にとっては値うちのあることかもしれない。

 首相が言っていることとは逆に、むしろ五輪をやめることがむずかしいことだ。だから、かんたんではなくてむずかしいことである、五輪をやめさせることにとり組む。むずかしいことにとり組む点では、五輪をひらくことと五輪をやめる(やめさせる)ことには共通点がある。ひらくにせよやめる(やめさせる)にせよ、いずれにせよむずかしい。

 言った通りになるのや、思った通りになるのであれば、話はかんたんだ。五輪をやめさせるのであれば、五輪をやめようと言っただけで、じっさいに五輪が中止になるのであれば、かんたんである。たとえこうせよと言っても、その言ったことが現実化しないからむずかしい。

 何がむずかしいことなのかを見てみられるとすると、ものごとを変えて行くことがむずかしいのがある。五輪をやめさせるのであれば、やめるようにするのがかくあるべきあり方だが、そのかくあるべきあり方とかくあるあり方がずれているのだ。

 かくあるべきあり方はこうだと言ったとしても、それがそのまますぐにかくあるあり方に反映されるのではない。五輪をやめさせるのであれば、やめることがかくあるべきあり方に当たり、それがそのまますぐにかくあるあり方になれば、かんたんなことなのである。

 何がむずかしいことなのかといえば、かくあるべきあり方とかくあるあり方とのあいだにへだたりがおきてしまうことだろう。みぞがひらいてしまう。かくあるべきあり方はこうだと言って、それを示すことによって、かくあるあり方とのあいだのへだたりが浮きぼりになることになる。へだたりをなかなか埋めづらい。へだたりがおきたままになってしまう。

 首相が言うように、五輪をやめることがかんたんなのだと言ったことであるよりは、かくあるべきあり方とかくあるあり方とを合わせることがむずかしい。かくあるべきあり方とは別に、それとずれているかくあるあり方が固定化されてしまう。かくあるあり方がよい方向に変化することがない(少ない)。かくあるあり方が変化をこばんでしまうのがあり、それが悪くはたらくことがある。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)