ウイルスの感染に対応するのと、努力の切り分け―行政の努力と国民の努力

 政府の行政による努力と、国民による努力がある。その二つの努力が合わさって、ウイルスへの感染にうまく対応できるようになる。そう見なせるのがあるかもしれない。

 自粛と補償では、自粛をするのはどちらかというと国民の努力に当たるだろう。そのいっぽうで、補償をするのは行政の努力に当たる。この二つがつり合っていなくて、自粛による国民の努力は強く求められてはいても、補償である行政の努力が十分ではない。一つにはそう見られる。

 つり合いの点でいうと、たとえばパチンコ店に営業の自粛である休業を求めるのであれば、それにたいする行政の努力である補償をすることがあってよいのではないだろうか。それがなくて、パチンコ店に営業の自粛である休業を求めはしても、行政の努力に当たる補償があまり行なわれないのであれば、つり合いを欠いていて不つり合いになっているところがあるかもしれない。

 二者択一によって、物々交換のようにやるのであれば、わかりやすいところがある。自粛と補償を物々交換のようにして見なすことができるとすると、国民の努力として自粛をするかわりに、行政の努力として補償が行なわれる。国民が一個なにかを支払うかわりに、国民がなにか一個を手に入れられる。そうした取り引きのあり方だ。そうなっていれば公平感がある。

 政府による行政の努力と国民による努力が、物々交換のようになっていれば、行政も努力をしているし、国民も努力しているというふうになる。どちらもが同じ方向に向かって努力をしていることになる。

 日本において新型コロナウイルスへの感染の対応のやり方を見てみると、きびしく見られるとすればおかしなところがある。政府による行政の努力が、必ずしも正しい方向に向かっていない。変な方向に向かって努力をしている。

 努力というのは、方向性と量によっているものだと予備校講師の林修氏はいう。努力ではまず方向性が正しいことがいる。日本の政権は、方向性が正しくないところがあることが疑われる。おかしな方向を向いているのだとすると、おかしな方に進んでいってしまう。ほんとうに国民が求めている需要に合っている政策が行なわれているのだとは見なしづらい。需要と供給にずれがある。

 国民と一と口にいっても色々な人がいるから、それらを一まとめにすることはできづらいが、それをくみ入れたうえでも、きちんとした政策が十分に行なえているとは言えそうにない。

 ウイルスへの感染に対応するさいに、努力についてを切り分けるようにして、行政の努力と国民の努力があるのだと見なせるとすると、それらの方向性と量がどうなのかがある。努力の方向性のおかしさや量の不十分さがあったとしても、何となくうまく行くという偶然もごくまれなこととしてはないではないだろうが、それにのぞみをもつのは確かな頼りになるものとは言えそうにない。

 行政の努力と国民の努力をいっしょくたにしないで、それを切り分けるようにして、物々交換のようになっていたらわかりやすいのがある。それにくわえて、物々交換のあり方を超えて、たんに国民のことを救うようにするという視点もいる。このさいの国民は、たんに日本人ということではなくて、なるべく広い意味でのものであってほしいものである。

 参照文献 『最後に思わず YES と言わせる最強の交渉術 かけひきで絶対負けない実戦テクニック七二』橋下徹