桜を見る会とその前夜祭と、問題の構築―大きな物語つまりまったくの客観とは言いがたい

 桜を見る会のことを国会でとり上げることは、意味があることなのかそれともないことなのか。それについては、どちらであるとも言えそうだ。

 社会学でいわれる構築主義によって見られるとすると、桜を見る会や、それを国会でとり上げることそのものは、一つのできごとだ。それにたいして、それをよしとしたりよくないとしたりするのは、そのできごとにたいする意味づけだ。意味づけされることから発言や行動がなされる。

 大きな物語として、桜を見る会や、それを国会でとり上げることについてを見なすことはできづらい。大きな物語というのは客観によるもの(客観に近いもの)だとすると、そうではなくて、小さな物語による。主観によっている。

 小さな物語によっているので、どのように見なすのかについては自己決定によることになる。よいから悪いまでのさまざまな意味づけや評価をとるさいに、そのできごとを客観でとらえるのではなくて、そこに主観の価値が入りこむ。

 一か〇かや白か黒かの二分法で見るのではないとすると、大きい物語によって、完全な理があるかそれともまったく理がないか、という二つに分かれるのだとは言えそうにはない。小さな物語になるとすると、それなりの理があることになるので、これをうら返せば、あくまでも限定された理があるのにとどまることになる。

 フランス語ではチュ・ア・レゾンというのがあるそうで、これの意味するところは、それもまた一つの理屈(レゾン)だということだという。これは大きな物語ではなくて小さな物語のあり方をさし示している。

 桜を見る会のことについてだと、それを国会でとり上げることにはそれなりの理があるだろうし、もっとほかのことをとり上げるべきだということにもまたそれなりの理があるだろう。そう言ってしまうと、悪い形の相対主義になってしまいかねないが、ここで肝心なのは、どちらかにだけ完全な理があって、もう一方にはまったく理がないということではない点だ。

 大きな物語ではなくて小さな物語なのであれば、完全に客観であるとは言えず、主観によっていて、構築されたものだ。どういうことがよいことで、どういうことが悪いことかというのが、構築されている。そういう点で、桜を見る会のことを国会でとり上げるのがよいと見なすのとよくないと見なすのとでは、何かをよくないことだと見なすという点ではたがいに共通点がある。

 どうでもよいとするのではなくて、何かを問題だとするさいに、それは構築されているのである。それを二分法で見ないようにするとすると、立ち場のちがいについて、どちらか一方だけが完全に正しいとかまちがっているとまでは言えず、完全にまちがい(とらえちがいや思いちがい)を含んでいないとまでは言えないから、いずれにしてもていどのちがいということがあるだろう。いずれの立ち場であったとしても、認知のゆがみが何らかの形で含まれていることを否定できず、一面的な見かたになっているおそれがある。

 参照文献 『構築主義を再構築する』赤川学構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『ユーモア革命』阿刀田高(あとうだたかし)