カルロス・ゴーン氏が日本の国外に脱出したという―行為とそれにたいするさまざまな反応

 日産自動車の元社長のカルロス・ゴーン氏は、去年(年末)のうちに日本の国外に脱出したと報じられている。ゴーン氏は日本で逮捕されていたが、その監視の目をかいくぐって日本の国外に出た。

 報道によると、ゴーン氏は大型の弦楽器の楽器ケースの中に入り、それで飛行機に乗せられて日本の国外に出たのだという。

 ゴーン氏のこの日本の国外への脱出は一つの行為だが、それにたいする反応はさまざまとなっている。日本の国外に脱出するのは、日本の国内の決まりでは許されるものではないから、義務に反した行為だ。

 海外からの声では、ゴーン氏の行為にたいして、ゴーン氏を責めるのではないものもあるようだ。日本の司法のあり方におかしいところがあるということで、それを批判する見かたがとられているのがある。日本ではきちんとした裁きが見こめないので、日本の国外に脱出するのも無理はないという見かただ。

 ゴーン氏が日本の国外に脱出したことについては、日本の国にとっては義務に反する行為ではあるものの、さまざまな反応がおきていて、それをくみ入れることがいるだろう。行為だけではなくて、それにたいする反応をくみ入れたものが、犯罪を形づくるからだ。

 ゴーン氏が日産自動車の社長としてまちがいなく悪いことをしていたとは言い切れそうにはない。そこは無罪推定として見ることができるのがあって、えん罪のおそれはゼロとは言えないものである。有罪推定として見るのはまちがいなく適した見かただということはできづらい。

 日本の司法のあり方では、逮捕された人の(最低限の)人権がきちんと尊重されて、不当にあつかわれるのではないことがいる。逮捕された人に特権を与えよということではなくて、人として最低限の権利つまり人権は保障することがいる。この点については、だれもが例外とは言えなくて、逮捕されたときには、だれにでも当てはまることだから、一般性があることがらだろう。

 悪い人間を捕まえて罰するさいには、悪い人間にちがいないという見かただけになってしまうと、認知のゆがみにおちいりかねない。そこには一つだけではなくて複数の正義が関わってくる。悪いから罰するというだけだと、一つの正義だけがとられることになって、罰することが自己目的化されかねない。

 肝心なのは、悪いのを罰することであるというよりは、社会における正義を回復させることだと言えるだろう。そのためには、日本の司法のあり方ができるかぎりつり合いのとれたまっとうなものでなければならない。手つづきにおいてまっとうさに欠けているようでは、まちがったことが行なわれてしまいかねず、社会にとって益になることが行なわれるとは言えそうにない。

 ゴーン氏はまっ黒で、日本の司法はまっ白だという二分法ではなくて、どちらも灰色ということで、日本の司法にも足りないところやまちがっているところがあるだろうから、そこを改めることがなされればよい。それで日本の司法のありかたが改まってよいあり方に少しでもなるのなら、日本の社会にとって益になることだから、そういうきっかけにすることができる。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『裁判官の人情お言葉集』長嶺超輝罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう)