日本が嫌いな人は日本から出て行くべきかどうか―日本の社会の中におけるさまざまな排除

 日本が嫌いなら日本から出て行け。ウェブではそう言われることがある。日本が嫌いだからといって、日本から出て行かないとならないものだろうか。

 日本から出て行けと言われるからますます日本が嫌いになるということもあるのではないだろうか。日本から出て行けということを言われるくらいに日本が人にたいして冷たいから日本のことをなおさら嫌いになる。人に日本のことをわざわざ嫌いにさせるのが、日本から出て行け、の文句だともいえる。

 たとえ日本のことが好きだとしても、日本から無理やりに出て行かされることがないではない。戦争のときには、みんなが日本を好きにさせられていたが、日本を好きにさせられた日本人であっても、日本の外の戦地に送られた。日本の外の戦地に送られて、ひどいあつかいを受けた。捨てごまのようにあつかわれた。国家の手段や道具として人があつかわれたのだ。

 日本のことが嫌いだったとしても、日本から出て行けないこともあった。出て行けるものなら出て行きたかったとしても、それができなくて、しかたなくいさせられる。戦争のさいにはそうしたことがあったものだろう。さいきんでは日産自動車の元社長のカルロス・ゴーン氏は、日本で不当なあつかいを受けたとして、それにあらがい、大型の楽器ケースに身をひそめて日本の外に脱出することに成功した。

 日本からたやすく出て行くことができる日本人はそこまで多くはないものだろう。たとえ日本のことがいやになったとしてもすぐに日本から出て行くことができる日本人はそう多いとは言えそうにない。それを逆手にとって悪用しているのが日本の政府だ。多くの日本人は、たとえ日本のことがいやになったとしても日本からは出て行きづらいのだから、政府が日本人をだましてもそうかんたんには気づかれない。戦争のさいにはそうして大本営発表が行なわれつづけた。日本の国内だけでしか通用せず、日本の外では通用しないようなことを政府は平気で日本人に向けて言う。大手の報道機関はごまかしを言う政府に加担していることが多い。

 日本の国は大きいものだが、それをもっと小さくしてみると、日本の社会の中ではさまざまな排除が行なわれている。日本の社会の中は、さまざまな排除があることでなりたっている。そのことをくみ入れられるとすると、日本のことが好きかそれとも嫌いかのどちらであるかを問わず、日本の社会の中でさまざまな排除を人はこうむっている。日本の社会の中で、どこにでも自由に人が出入りできるのではない。

 日本の社会の中できちんとした自分の居場所をもてて、根を下ろせている人はまだしもよい。それがうまくできないのが弱者だ。弱者ほど日本の社会の中で排除を受けやすい。色々なところから出て行かされる。しめ出される。

 日本からというよりも、日本の社会の中で色々なところから出て行かされるのがあり、その深刻さは無視することができづらい。そこを何とかすることがなければならない。日本とその外というよりは、日本の中において人をさまざまに排除していることがなくなるようにして、人が平等にあつかわれるようにして、色々なところに自分の居場所をできるだけ自由にもてるようになることがいる。

 日本の社会の中で、強者だけが社会の中にいてよくて、弱者はいづらいのだと、日本の社会のあり方としてよいあり方なのだとは言いがたい。社会の中にはさまざまな人がいるが、お互いに相互作用がはたらくのがあるから、強者だけが生きて行きやすいとか、日本が好きな人だけが生きて行きやすいとはなりづらい。じっさいに戦争のさいには、日本にとって都合の悪い人がきびしく排除されていたが、そのことによって日本を好きな(好きを強いられた)人が生きて行きやすくなったのかといえば、答えはノーだろう。

 できる限りさまざまな人を広く許容するようにしたい。日本の社会の中で弱者または日本にとって都合の悪い人が悪玉化されて排除されないようにして行く。そうできれば、ことわざでいう情けは人のためならずのように、めぐりめぐって自分を含めてみんなが生きて行きやすくなるのではないだろうか。相互作用がはたらくことをくみ入れればそう見られるのがある。求められているのは、日本の社会の中において分けへだてのないよき歓待や客むかえ(ホスピタリティ)がどれだけできるかだろう。

 参照文献 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂』阿部彩(あべあや) 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司