その時代の中で、ほかの人よりも飛び抜けてすぐれた人がいる。ほかの人よりも飛び抜けてすぐれた人であったとしても、まちがいをおかす。まちがいをおかすことを避けられない。哲学の歴史ではそうしたことが言えるそうだ。
いまの時代には、ほかの人よりも飛び抜けてすぐれた人というのは、なかなか出てきづらいのがある。昔とはちがって、高度に情報化された社会になっているから、誰でもがそれなりに情報に接することができるし、平準化されている。抜きん出るということはなかなかないことで(まったく無いわけではないが)、とりわけ出るくいは打たれがちな日本の社会ではそうだろう。
すぐれた人と凡人とであれば、すぐれた人であってもまちがいをおかすことを避けられないので、まちがいをおかすという点においては、凡人とそこまでちがいはないということになる。
ことわざでは、天才と馬鹿は紙一重と言うが、これの意味するところとしては、天才であってもまちがいをおかすことを避けられないのだと受けとれる。天才だからまちがいをおかさないのではない。すぐれた人だからまちがいをおかさないというのではないのをあらわす。似たようなことわざでは、かっぱの川流れとか、さるも木から落ちるとか、弘法も筆の誤り、なんていうのがあげられる。
政治で政策を行なうときには、どんなにすぐれた人であっても、まちがいをおかすことが避けられないのをくみ入れることは益になることだろう。すぐれた人でも、政策をどう見なすのかというのにはまちがいがつきものだし、それは愛国者であってもまたそうだ。すぐれた人だからまちがえないとか、愛国者だからまちがえないということは無いことだろう。
愛国者がまちがうというのは、歴史においてその実例がある。戦前や戦時中の日本は、ほとんどみんなが愛国者だったのだし、そうさせられた。愛国者であればあるほどまちがえないのであれば、戦争につき進んでいって自国や他国の人を含めてとんでもない被害や失敗を生むことはなかっただろう。愛国者だとしてもまちがうときには当然のこととしてまちがうのだと言わざるをえない。
たとえどのような人であっても、政治の政策をどう見なすかや、どれがよいかということでは、まちがいをおかすことを避けられない。それがひと握りのすぐれた人であっても、すぐれていないわれわれのような凡人であっても、また愛国者であっても、反日や売国とされる人であっても、みんなそうなのである。無びゅうではなくて可びゅうだという点では横ならびとなっている。