新しい天皇陛下に向けたばんざいの行為のもつ記号的な意味―記号と象徴

 新しい天皇陛下が即位するもよおしが行なわれた。このもよおしの中で、新しい天皇陛下に向けてばんざいが行なわれたという。首相その他がやっていたようだ。

 新しい天皇陛下に向けたばんざいという行為がもつ記号的な意味とは何だろうか。

 ある行為が記号的な意味を持つというのは、その行為という事実がその事実より以上の意味あいを持つ、といったことをさすものだという。

 天皇陛下に向けてばんざいをするという行為にたいしては、個人としてはやや違和感をもつ。そのばんざいの行為がもつ意味として、たんに喜ばしいものとする表面の意味だけではなく、ほかの意味をともなうからだ。権威化や神聖化してしまいかねない。それを呼びおこす。そういったほかの意味のほうにこそねらいがあるのだと見ることもできる。

 天皇陛下に向けてよりも、たとえば憲法による国民主権主義にたいしてばんざいをするというのはどうだろうか。主権者である(一人ひとりの)国民に向けてばんざいをする。

 天皇陛下というのは日本の国や国民の統合の象徴とされるが、それだったらじかに国民に向けてばんざいをするほうが、天皇陛下にばんざいをするよりかは個人としては違和感が少ない。組織は人なりと言われるのがあることからすると、国という組織のもとは人だ。その人とは国民のことだ。

 天皇陛下に向けてばんざいをしても、天皇陛下に益があるとは言い切れそうにはない。戦後における天皇制について、ただたんに他律(慣習)によるのではなくて、自律(反省)によって見ることをうながす。どういうあり方がふさわしいのかを探るようにして行く。その意識が国民の一人ひとりにおいて高まるようにすることが、天皇陛下にとっての益につながって行くのではないだろうか。

 A は B の象徴だというさいには、A は B を象徴している役を果たしているのだから、A が大事ではないというのではないけど、その本質は B にあるのではないだろうか。A は B をあらわす(とされる)ものではあるものの、象徴は記号のように等しいものではない。これは小説家の村上春樹氏の小説の作品の中で説明されていた。

 ハトは平和の象徴だというさいに、ハトと平和は記号の関係ではないから、ハトは平和をあらわすとしても、平和はハトをあらわすのではない。象徴において、A をよしとするとしても、B を忘れてはならない。A だけ(そのもの)をよしとすると、B がないがしろになってしまい、へたをすると本末転倒になりかねない。

 参照文献 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進 『教養としての大学受験国語』石原千秋倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき) 熊野純彦(くまのすみひこ)編