政権はウイルスの対策をちゃんとやっているが国民はちゃんとやっていないのか

 政権はウイルスの対策をいろいろにやっている。そのいっぽうで国民はやるべきことをしっかりとやっていない。政権の言うことを国民が守っていない。そうしたことを厚生労働相は言っていた。

 厚労相がいうように、政権は新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への対策をいままでにいろいろとやって来ているが、国民はやるべきことを十分にやっていないのだろうか。国民がいたらないことが主として悪いのだろうか。

 政権と国民とのあいだに相互作用がはたらく。そのように見てみることができるとすると、かりに国民がいたらないのだとすれば、それは政権にそのもとがあると言える。

 たがいのあいだに相互作用がはたらくのがあることからすると、政権だけが悪いとか国民だけが悪いとは言えそうにない。たがいに流通し合っているところがあるので、負の循環(spiral)がおきることになる。

 国民そのもの(presentation)ではなくて、国民の表象(representation)なのが政権だ。国民がまずあって、その表象として政権があるのだから、国民の上に政権が立っているのだとは言えないのがある。

 国民そのものと政権とはぴったりとは合っていなくてずれがある。政権は表象であることから国民に嘘をつくことが少なくない。国民のほうに顔を向けて政治を行なっているのではなくて、特定の特別利益団体のほうに顔を向けていることが多い。

 国民を重んじるのではなくて軽んじる。日本の政治ではそれがかいま見られるのがある。もともと日本の政治では国民を重んじて行こうといった動機づけ(incentive)が強くない。それは戦前から引きつづいている天皇制に一つのもとがある。天皇制では国民に命を捨てさせて、天皇や国体を守ろうとしたのである。

 もとから国民のことを重んじようとする動機づけが強くはないのが日本の政治だろう。政治において統治(governance)をなそうとする動機づけが弱い。うわべでは政治において統治ができているようでいて、よりつっこんで見てみれば統治ができていない。

 政治において統治をなすためには、いろいろにある見なし方の複数の選択肢の中で、どういったものをよしとするのかを言葉によって他にむけて説明することがいる。日本では複数の選択肢の中から自由に自分が選びとることが許されているとは言えそうにない。個人が自由にものごとを選択するといった選択の文化がうすいのがあるので、お上が決めたことを下が受け入れさせられることになりがちだ。

 統治の能力をしっかりともった政権が日本の政治にはあるとは言えないのがあり、政権が不在だと言ってもあながち言いすぎではないだろう。いっけんすると政権があるのだが、実質としては政権が不在となっている。きちんと統治をなして国民に客観にものごとを説明することができるような政権がこれまでに日本にはなかった。きびしく言えばそう言えそうだ。国の財政のぼう大な赤字などにそれが映し出されている。ぼう大な財政の赤字は国の統治の失敗をあらわしているものだろう。

 政権には統治をなす力がいちじるしく欠けているから、それが国民に悪い影響をおよぼす。相互作用がはたらくことによって、政権の力のなさが国民に悪い影響を与えて、負の循環がおきる。そのなかで政権はよいが国民は悪いといったとらえかたはできづらい。もしも悪いと言えるのであれば、国民だけではなくて政権もそれと同じかそれより以上に悪いところがあるものだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『こうして組織は腐敗する 日本一やさしいガバナンス入門書』中島隆信 『日本を追い込む五つの罠』カレル・ヴァン・ウォルフレン 井上実(みのり)訳 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進 『近代天皇論 「神聖」か、「象徴」か』片山杜秀(もりひで) 島薗(しまぞの)進