憲法九条の信者をなぐることと、国というもののおかしさ

 憲法九条をよしとする。九条をよしとする信者がいるとすれば、その人をなぐってみたい。九条の信者は、人からなぐられたとしたら、いったいどうするつもりなのだろうか。それを見てみたいものだ。そういうツイートがツイッターで言われていた。

 このツイートで言われていることというのは、こういうことだと見なすことができるのではないだろうか。国というのは、なぐる主体なのである。なぐるというのは悪いことなのだ。そこから、国は悪いものなのだということが導かれる。

 憲法九条というのは、国はなぐるものであって、そういうことをする国というのは悪いものなのだ、ということをあらわしているところがあるものなのではないだろうか。

 憲法九条が絶対の正義だと言うつもりはない。ただし、個人の信条としては、九条は守ったほうがよいのではないかというのがあるのはたしかなのだけど、それは置いておけるとして、焦点を当てたいのは、国はなぐるものだということや、国は悪いものだということである。これは、国というものにほぼ例外なく当てはまるものだと見なしたい。自国であっても例外ではないということだ。

 悪い国から自国を守るということよりも、むしろ国というのが基本として悪いものなのではないかという気がしてならない。国は悪いというふうに言うと、極論に響くところがあるかもしれないが、自国は大切だとか、国(普通の国)はよいということは、虚偽意識(イデオロギー)なのではないだろうか。

 世界平和のためには、国というのを超えて、超国家(トランス・ナショナル)であったり、あるいは国を分化したものである、地方自治体による自治だったりというのが大切になってくる。平和をはばむ元凶として国というものがあるのではないだろうか。国そのものが平和をはばむ元凶になってしまっている。国そのものが、紛争を呼びおこしている。歴史と事実をうやむやにしてしまっている。そういうところが少なからずあるように見うけられる。

 参照文献 『現代思想のキイ・ワード 増補』今村仁司