憲法九条を守れと考えることはそこまでおかしいことなのだろうか

 憲法の九条を守れと考えている人は、知能が低いか反日思想の持ち主か売国奴かのどれかだ。ツイッターのツイートではこう言われていた。

 はたして、憲法の九条を守れと考えている人は、このうちの三つのどれかにみながもれなく当てはまるものなのだろうか。三つのほかにも色々とあるものだろう。

 ツイートで言われている三つのものはどれもが悪口のようなものだけど、もっとほかの悪口ではない選択肢(選言肢)をとって色々なあり方があるというふうに増やしたほうが、適した見かたになりやすい。選択肢(選言肢)が少ないとまちがった推論になることがある。

 憲法九条を守れと考えるのは、憲法九条が実定法に当たるものだから、実定法を守れということになる。これはそれほどおかしいこととは言えそうにない。絶対にまちがいなく正しいとは言えないかもしれないが、一つのあり方であることはまちがいない。

 憲法九条が実定法だということにおいては、それを守ろうとするのはそこまでおかしいことだとは言えず、それなりの正しさもあるのではないだろうか。

 憲法ができたころの出発点に立ち返ってみれば、そのころは憲法九条をふくむ実定法と、それを離れたかくあるべきという自然法とのかい離は小さかった。結婚でいうと、結婚式で愛をちかう最中のようなものだ。憲法九条を含めた憲法は、間接的に(当時の国政選挙の結果として)その当時の国民から肯定されていた。その当時の国民がおかしい判断をしたとは必ずしも言えないだろう。

 憲法九条をまちがいなく正しいものだとして絶対視するのはおかしいことかもしれないが、一般論として言うと、さまざまな法(実定法)というのは、それをつくるさいに、そのときの人びとがもつ知恵や考えが動員されてつくられるので、とんでもなくおかしいものはつくられづらい。

 わざとできの悪いものをつくるのは利益になるものではないので、そうしたことはあまり考えづらい。原則としてはそれなりによいものがつくられることが少なくない(例外はあるかもしれないが)。そういった一般的な法律や憲法のつくられ方をくみ入れれば、憲法九条を守れという考え方がそこまでとんでもなくおかしいことだとは言えないだろう。

 原理原則(プリンシプル)として、国際協調主義(自由主義)による専守防衛や平和共存というのは、どこからどう見てもまったくもってまちがっていることだとまでは言えそうにない。現実主義からすると非があるのはあるかもしれないが、現実主義による現実がまったくもって正しいとは言いがたいし、現実(何々である)と理念(何々であるべき)が同じだったら理念の意味はあまりない。現実と理念が同じではなく、そこにかい離があることがよかれ悪しかれ問題なのだ、というのは言えるのはある。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫 『法哲学入門』長尾龍一 『夢を実現する数学的思考のすべて』苫米地英人