事実をコピー・アンド・ペースト(コピペ)しているというのは、たんなる伝達情報であって、それをそのままうのみにすることはできづらい(事実をコピペしているのではなかったとしても、事実をコピペしていると言うことはできる)

 事実をコピー・アンド・ペースト(コピペ)しているだけだ。そんなことが言われている。事実をコピペしているだけなのだから、そこに著作権の侵害はない。事実は誰があらわしてもいっしょなのだから、同じ表現になるのだという。

 こうしたことが言われているのにおいて、それを改めて見るさいに、まず一つ言えるのは、事実をコピペしているのにすぎない、というのははたして事実なのだろうか。事実をコピペしているにすぎない、というのは事実ではないのではないだろうか。ここで言われている事実というのは、どこかで誰かが表現したものをさしていると見たほうがつじつまが合いやすい。

 事実というのを見るさいに、それを直接の現前(プレゼンテーション)と代理の表現(リプレゼンテーション)に分けられる。事実そのものは直接の現前であって、これは言葉になる以前のものだ。それを言葉もしくは絵なんかであらわしたものが代理の表現だ。代理の表現は再現前させられる。コピペが可能だ。

 直接の現前は、哲学者のイマヌエル・カントの言ったとされる物自体(物そのもの)に当たる。代理の表現は現象である。人間は物そのものをとらえることはできず、現象をとらえられるのにとどまる。

 事実をコピペするというのは、言葉になる以前の直接の現前をコピペするということになり、これは人間にはできることではない。人間にできるのは、事実そのものではなく、それを言葉や絵などであらわしたものである代理の表現をコピペすることはできる。

 より正確には、事実をコピペするのではなく、表現されたものをコピペするという方が当たっている。直接の現前ではなくて、代理の表現をコピペしているのだ。代理の表現をコピペしているのだから、事実をコピペしているのではなく、虚偽をコピペしているということもできなくはない。この虚偽をコピペしているというのは、言葉とは虚偽であるということにもとづく。事実と反事実(虚偽)というのは、そこまではっきりと分けられるものだとは言えそうにない。

 直接の現前であれば、主体と客体(事実)は透明である。しかし、代理の表現においては、主体と客体(事実)のあいだは不透明だ。主体は透明に客体(事実)を見通すことはできない。直接に客体(事実)をつかまえられるのではなく、間接としてつかまえられるのにすぎない。

 事実の世界と意味(価値)の世界がある。事実にたいして意味づけすることによって人間の世界が成り立つ。たんなる事実というだけでは、人間にとって意味のあるものになるとは言いがたい。哲学では、質料(事実)と形相(意味や価値)と言われるという。

 思想家のジャック・ラカン精神分析学では、現実界想像界象徴界があるという。現実界が事実だとすると、それだけによって成り立つのではなく、想像界象徴界が関わってくる。象徴界においては、象徴である言葉などによって、現実を認識することになる。

 経験の事実がある。純粋なままで経験の事実をあらわすことはできづらい。生の純粋な経験の事実を、何らかの形式に当てはめることがいる。生の経験の事実を言葉であらわすのであれば、言葉の文法や語いの制度に当てはめることになる。

 事実というのは大きな物語になりかねない。事実という大きな物語があるのではなく、いくつもの小さな物語があるということが成り立つ。小さな物語としてのいくつもの事実は、事実の一面と言ってよい。複数の事実の一面があって、複数の視点がとれる。

 事実をコピペしているだけだというのは、一つの伝達情報(発言)だが、これについては、IMV 分析で見ることができる。これは、学者の西成活裕氏によるものだ。たとえ事実をコピペしているのではないとしても、事実をコピペしているのだと言うことはできる。思っていることと言っていることがズレているのだ。意図(intention)と伝達情報(message)のズレだ。このズレがあるとすれば、伝達情報をそのまま受け入れるのではなく、その逆の見解(view)をもつのがふさわしい。

 事実であるとされるものが、そうではなくなることがあるというのでないと、反証可能性に開かれているとは言いがたい。事実とされるものをコピペしたとしても、その事実とされるものが事実ではないことがあるから、そうであるとすれば、事実ではないことをコピペしていたことになる。ゆえに、事実(とされるもの)をコピペしたというのは、事実かどうかはまちがいなく絶対に確かだとは言えそうにない。

 事実かどうかは厳密に言うと必ずしもまちがいなく確かではないが、さしあたってコピペだけはした、ということは言えるかもしれない。コピペされたものが事実になるとは言えないし、コピペされないものが事実ではないとも言えないし、事実ならばコピペされるとも言えそうにない。