自分が人間であるという前提条件をとらないようにしてみる(じっさいに社会の中では許されるものではないが)

 自分は人間ではなく、猫である。こういうふうにとらえるとちょっと楽になるのがある。人間ならこうであるべきだとか、日本人であるのならこうであるべきだというのがあるが、猫であるのならそれが当てはまらなくてもあるていどはしかたがない。

 実存主義では、実存は本質に先立つと言われる。本質主義では、本質は存在に先立つとなる。この本質には、国家や民族などが当てはめられる。本質ではなく実存が先立つとするのが実存主義によるものだ。

 形式(外見)は人間だとしても、実質(内面)は猫なのだとすると、人間と言うべきか、それとも猫と言うべきか。実質は猫だといっても、勝手に自分で自分をそう見なすのを試しているだけのものだから、本当にそうだというのではないが。

 とくに猫である必要はないものである。動物性(アニマリテ)を持ち出してみることによるものだ。人間の不自然さや非人間さがあり、動物性の自然さや人間さがある。動物性の人間さというのは、動物性であることによってかえって人間が過ごしやすくなるということだ。

 人間は自分たちが平和であるために戦争をすることがあるが、動物は人間のように兵器の武力による殺りくやせん滅や戦争をしない。人間が動物化すると戦争に行きつくのではなく、人間が人間化すると戦争に向かう。平和ということでは、猫の生活が第一というのがあるように、動物性は捨て置くことができないものだ。