新聞をとるのに協力をしないほうがよいとして、新聞を茶化している場合ではないのではないか(新聞への不信をあおるようなことは、新聞を悪玉化して排除していることであり、それで解決するものではないだろう)

 アメリカのドナルド・トランプ大統領に、ものを言えるのが、日本の首相である。財務相はそう言っていた。自由民主党は、経済でよい結果を出していて、それは数字で示されているという。自民党への支持は、若い世代で多いといい、その世代は新聞を読まないそうであり、新聞をとる(購読する)のには協力しないほうがよい、と述べている。

 財務相のなかでは、きっとこうなっているのだろう。若い世代は新聞を読まない、その世代は自民党を支持している、若い世代に支持されている自民党は正しいのであり、正しい自民党を支持している若い世代は正しい。新聞は読まなかったりとらなかったりするほうがよい。

 若い世代から自民党は支持されているだとか、若い世代は新聞を読まないだとかというのは、もうひとつ説得性が感じられないものである。一般論としていえば、どちらかといえば、若い世代は新聞を読むべきだろう。読まないのがよいことだとは言えそうにない。

 財務相は、新聞をとるのに協力しないほうがよいとしているが、これはおそらく、自民党にとってのぞましくないものをなくそうとすることを言っていそうだ。新聞がなくなれば自民党にとって都合がよい。自民党にとって都合がよいことは、日本をよくすることにそのままつながるものではなく、かえって悪くすることになりかねないのだから、日本をよくすることはまた別に見なければならない。

 新聞は社会の公器なのだから、それによって報道されるものの質を高くすることは、人々にとって益になる。直接に新聞を読むのではないにせよ、間接には新聞の情報が引かれて別のところで報道されるのがあるから、間接に新聞の情報に接しているのがある。間接には接しているのだから、新聞をとらないのに協力するというのではなく、報道の質を高めるための手だてをとるようにするほうがよい。

 新聞で報じられることが、自民党のやろうとしていることや言っていることと食いちがう。そのさいに、新聞がまちがいで、自民党が正しいとは見なしづらい。どちらも可びゅう性をもつのであり、自民党は無びゅうというわけではない。新聞を批判として見るのがいるのと同じように、自民党のやることや言うことも批判で見なければならないものだろう。

 現実におきたことを新聞は報じるが、そのさいに、現実をそのままあらわすのではなく、受けとりやすい形に加工している。現実の情報量が一〇だとすると、新聞で報じることは一〇ではなくてそれよりも下回る。下回ったのがかりに六くらいだとすると、財務相をふくめて与党の政治家の言うことは、その下回ったのよりもさらに下回っていることがある。二か一くらいで、悪ければマイナスのこともある。新聞も、ときにマイナスとして誤報をすることがあるだろうけど、大手の新聞であれば、全部が全部そうであるわけではない。

 現実の情報量が一〇だとすると、新聞で報じることははそれよりも下回るが、与党の政治家の言うことはその新聞よりもさらに下回っているととらえらえる。新聞が政権与党と一体化して大本営発表のようになっていないのであれば、政治家は新聞に肩を並べたり上回ったりすることはできづらい。新聞は情報を報じるのを専門にしているが、政治家はそうではないから、基本として政治家は上回りづらい。たまには新聞よりも上回ることがあるかもしれないが、それはほんのときたまのことであるだろうし、現実そのままのものではない。

 現実の情報量が一〇だとして、そこから差し引かれたものが新聞の情報である。その差し引かれているのは、新聞が現実を媒介していることによる。媒介しているのを、現実をあらわしていないことだとするのは、ふさわしい見かただとは言えそうにない。現実を媒介することで、現実の情報量から差し引かれるわけだが、現実を媒介せずに、直接にものごとをあらわせるものではない。あたかもそれができるかのように見せかけることはできるが、それは財務相をふくめた与党の政治家による嘘である。虚偽意識(イデオロギー)の産物にほかならない。