党が苦しいときがあったのかもしれないが、そんなことは(党の関係者以外には)とくにどうでもよいことであり、国民にとってためになるかどうかがいちばん重要なことだろう(党よりも国民のことをおもんばかるべきである)

 自由民主党が下野したさいに、人が次々に出ていった。そういう苦しいときにこそ、人間性がわかる。自民党財務相はそう言っている。自民党が下野している苦しいときに、自民党から出て行く人は、薄情だとでも言いたいのだろう。

 自民党が下野していて苦しいときに、そのまま自民党に居残った人は、みんな優れた人だとできるのかといえば、そうとは言えそうにない。自民党が下野していて苦しいときにそのまま居残りつづけて帰属していたとして、それだから優れた人であるということにはならない。

 自民党はよいときも悪いときもあるとして、そこにずっと帰属しつづけていることは、とくに何のあかしを立てることにもならないものだろう。ある一つの集団があるとして、そこに属していようと、そこから離れようと、個人の意思によって自由であるのがのぞましい。一つの集団に属しているからえらいわけではなく、離れたからえらくないわけでもない。たとえ一つの集団にずっと属しつづけていても、それをもってして駄目なのがよくなるわけではないだろうし、集団から離れたから駄目になるわけではない。

 財務相が言うように、自民党が下野したときは苦しいときだったのかもしれないが、それは別にして、ある一つの集団にずっと居つづけるのではなく、そこから離れるのは決して悪いことではない。集団から離れることによって、その集団を外から見ることができる。その集団から離れて、外から見ることによって、内にいては分からないことが分かることはある。内にいるのはコミットだが、コミットメントが上昇するのはゆでがえる現象になるので危ない。内ではなく外にいるディタッチのほうがしばしば役に立つ。

 企業では、日産自動車は、苦しいときに外から社長を招き入れて、業績を回復することができたのがある。外から来た社長は、集団が苦しいときにその集団に属していたわけではないだろう。それでもその集団の業績を回復することができたのがあり、それはその集団の文化に染まっていないのがかえって功を奏したのがあげられる。

 企業の例で見られるように、ある一つの集団にずっと居つづけて帰属しているからといって、その集団に益になることができるとは言えないのがある。かえって外から来た人のほうが、その集団の文化に染まり切っていないぶんだけ、集団にとって益になることができることがある。それと同じようなことが、自民党にも当てはまるという見かたが成り立つ。自民党が下野して苦しいときも、自民党から離れずにずっと居つづけて帰属しつづけていたからといって、それがいったい何のあかしを立てることになるのだろうか。

 集団への帰属(アイデンティティ)ではなくて、ある人の優秀さである、その人の個性(パーソナリティ)が何なのかを見られたほうがよい。いまの自民党は、帰属ばかりを重んじていて、人の優秀さなどの個性を見ていないのだと見なせる。いまの自民党にとってよいことが、国民にとってよいことにつながるとするのは短絡すぎるのであり、それは切り離して見ないとならないことだろう。自民党が広く国民にとってよいことをするという根拠はとくに見いだしづらい。