きちんと有権者にわびていないのは、個人的には腑に落ちない(わびるのは、何段階にもわたる過程をふんで行なうことがいるくらいに、難しくかつ重要なことだろう)

 信頼回復に努める。財務相はそう言っているけど、それよりも先に、不信感に応えないとならない。不信感や不満の声をそのまま放ったらかしにしておいて、信頼を回復できるものではないだろう。信頼の回復に努めるのにさいしては、不信感や不満の声を受けとめて、それに応えるのが欠かせない。それがほとんどできていない以上は、信頼の回復は見こみづらい。

 三〇〇か所にもおよぶ不正な公文書の改ざんの不祥事がおきて、その同じことが二度とくり返されないというきちんとした保証がされていないので、信頼のしようがない。不正な不祥事は悪事であり、それは限定化されずに一般化されるのが自然である。一般化されたくないのであれば、人為の不正をおこさないようにあらかじめ良識を高めておくことがいる。おこしたことを当事者が過小化するのは不自然だと言わざるをえない。良識がそれなりにあれば、おこしたことを過小化するのではなく過大化するはずだ。

 当事者だけではなくて、広く政治や社会にたいして、のちのちにまで引きずりかねない大きく深い損失を与えるものだと見なせる。公文書の改ざんの問題を、とても深刻に受けとめることもできるのだから、財務省や政権与党は、それをするくらいでちょうどよいのではないかというのがある。

 いったい誰の問題なのかというのを見るさいに、その被害をこうむることになるのは、広く社会の人々であるだろうし、いまの時点だけにかぎらず、過去と現在と未来にわたる社会の人々の面目に小さくない傷をつけたことになっているかもしれない。こうしてとらえるのは、大げさすぎるとらえ方になってしまうのかもしれないが、一つの視点としては、そうとうに深刻な問題だという見かたはとれるものだろう。危機になっているのだという見なし方である。

 大阪地検特捜部は、財務省の公文書の改ざんにかかわった役人を起訴はしなかった。事実を証明するのは困難だとしている。困難だというよりは、そもそも地検は権力チェックをふみこんできちんと行なう意欲をもっていないように見うけられる。もとから権力チェックの意欲をもっていなかったか、途中で失ったのかもしれない。それはそれとして、財務省による公文書の改ざんは、法をないがしろにするものであるのはまぬがれない。法をないがしろにしたのは、政権与党が自分たちの短期の利益をとったからであり、それによって広く社会における長期の利益を損なったのである。今さえよければ(現在への埋没)とか、自分たちさえよければ(自己中心)、といったことで政権与党は動いてしまっている。これがまったく的はずれでまちがった見かたであれば、またちがった別の見かたができるかもしれないが。