目をつけられやすい視覚の報道媒体

 ラジオは、報道機関としてけっこうがんばっているなという気がする。それに比べて、テレビや新聞というのはちょっと頼りないところがある。(一部例外は除いて)厳しくいうと、全体として、権力に迎合しているような感じだ。しかしこれは、それだけテレビや新聞が目をつけられやすいのがあるのを無視できない。あと、はじめから寄せられている期待感が大きいのもある。ラジオというのはその点ではすき間であるニッチのような部分があるから、やりやすいところがありそうだ。

 こういう差がどこから来ているのかは、いろいろ理由がありそうである。もともと、視覚と聴覚のちがいがまずあるそうなのだ。視覚というのは暴力的で、聴覚は非暴力的であるという。たしかに言われてみればそういう気がする。どうしても視覚というのは刺激にかたよるし、場としてとげとげしくなってしまうのはいなめない。

 ウェブなんかでも、時代を追って現在に近づくにつれて、ゆとりがなくなり、なにか殺伐としてきてしまっているようなふしもある。うるおいが足りない気がする。砂漠のようなあんばいだ。これはたんに過去を美化してそこに憧憬をもっているがための部分もなくはない。そうではあるのだけど、2ちゃんねる用語で、今は死語かもしれないが、マターリすることが(ウェブ内で)全般的になくなっているようだ。これは世界情勢の不透明さとも関係しているのかもしれない。まだラジオなんかは、少しではあるが、マターリしている部分があるように見うけられる。

 テレビにおいても、ひと昔前(そうとう前にさかのぼるのだけど)のお笑い番組なんかのほうが、暴力的なものがそこまで多くはなかったのではないだろうか。わりと平和的だったという。それが時代を下って今に近づくにつれて、暴力的な言動が多くなってきてしまっている。過度のいじりなんかである。視聴率の細分化による競争の激化のせいもあるのかな。これははっきり言ってよくない風潮であることは否定できない。しかし今さらそんなことを言っても遅すぎることもたしかだ。

 ラジオのもっているような、聴覚による非暴力的な面を、今よりもさらにうまく活用することができないものなのだろうか。しかしあまり無条件に美化しすぎるのも間違いのもとだから、そこに注意することもいる。聴覚が全面的に非暴力というのではなく、たとえば大声だとか扇動だとか暴言だとかの暴力的な面もあるにはあるだろう。

 われわれは知らずうちに、町中の騒音なんかのせいで、とくに都市部においては、聴覚をふくめた暴力にたいする不感症にさせられている。経済優先であるために、車やバイクの出す音や、お店などでの商業活動にともなって生ずる、非人間的なうるさい音がはびこっているのもたしかだろう。大げさに言えば、ただ生きているだけで、神経がすり減ってしまうことになる。

 そうした負の面もあるが、視覚の情報はわりあいデジタル化されやすいのに対して、聴覚の情報はアナログが残りやすいのが大きいのかもしれない。聴覚の情報だと、質感のようなものが意味をもちやすい。あと、話の間(ま)とかの比重も大きそうだ。受け手においても、聴くというのは、送り手とのあいだに信頼(ラポール)みたいなのが築かれやすいところがありそうだ。そのために、電話でのオレオレ詐欺なんかがおきてしまいもする。

 何でも、聴覚というのは、第二次性質までしか到達できないそうである。嗅覚もこれに含まれる。その先にある視覚は第一次性質という。これでいうと、聴覚というのは、第一次性質までは到達できないために、制限されている。その制限されていることがかえってよいのかもしれない。人間のもつ合理性の限界(限定性)のようなものに多少は合致する。しかし第一次性質である視覚によるものだと、どうしても合理性が万能であるとして錯覚におちいりやすい。拍車がかかる。そうした傾向がありそうだ。